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TAKEのつぶやき


☆日野富子

日本三悪女の一人とも言われる人物です。丁巳(ヒノトミ)と関係あるなんていう面白い説もありますが、関ヶ原の戦いつながる応仁の乱の中心人物の一人です。

日野富子は足利八代将軍義政に若干16歳で嫁いだときからがよく歴史に登場する。女子二人を生んだが義政の跡継ぎとなるべき男子の生めなかったことが後の問題の原点になる。
栄華をきわめた義政ではあったが政治には無頓着であり、隠居を決意し、実弟の義尋を還俗させ、義視と改名させ後継者にした。
しかし翌年になって問題が勃発。はからずも富子が懐妊し実子義尚が生まれる。義政は静養のために富子を堺の領主・細川勝元に預けることにしたが、このために応仁の乱が起こることになる。つまり、富子は山名宗全に助けを求めて義尚を後継者にしようとし、細川勝元に助けを求めた義視と対立する。そしてこのことは戦国時代の幕開けとなり、下克上、そして足利家没落へと続くことになる。
乱の最中に義尚が正式に九代将軍に就任したが、義尚は幼少であったので実際の執務は義政がとった。しかし、相変わらず義政は政治に無頓着で、遊興に耽りっぱなしであったという。

その後、富子は将軍義尚の後見人として直接政治に関与してくるようになる。また、政治に関与するだけでなく、戦乱で窮乏した諸大名に高利で金銭を貸し付けたり、賄賂をせしめたり、米相場に介入したり、関所を設けて関銭を徴収するなど莫大な財貨を蓄積していった。また、このことが後の悪女の名をいっそう高めることになる。
しかし、その財力を持って応仁の乱を沈め、将軍家を立ち直らせるために奔走した、今で言うキャリアウーマンであったとする面白い意見もある。

しかし、このように将軍義尚の後見人として絶大な権勢を振るっていたが、余りにも政治に介入し過ぎたため、義尚とも不和となった。また、義尚と義政も病没したので富子は出家して幕政に大きな影響を及ぼしていくようになる。
その後、将軍継嗣を巡って争った義視の子義材を迎えて十代将軍としたが、細川勝元と謀ってこれを退け、代わりに義政の末弟である政知の子清晃を還俗させて十一代将軍とした。

ここまで調べましたが、ついでに面白い逸話もありました。

富子が堺に住んでしたころに鐘を造らせていますが、この鐘は今では京都の嵯峨野の清涼寺に移されているそうです。また、この鐘にまつわる伝説は幕末のころから庶民の間で作られたそうで、「あの鐘をつけば無病息災になる」「入学試験に合格する」と言われているそうです。
富子の執念(わが子への執念)が伝説に結びついたと言われるそうです・・・・・

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2011/02/06 23:13
母親が実の息子を即位させて自分が後見人になって政治に口出しするって
中国の戦国時代ではよくある話で、そのうえ中国だったら自分の子以外は毒殺とかしちゃうでしょ。
それにくらべたら富子なんて全然おとなしいほうだと思うんですけど・・・。
悪女呼ばわりは気の毒だなーっていつも思います。
子煩悩プラスちょこっと野心が強かったってだけなのにねえ。
学業成就など野心を叶えたいときは頼りたくなる鐘ですね^^



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