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前漢(西漢)・中興

巫蠱の乱後、皇帝後継者は長期間空白が続いた。
武帝は崩御直前に8歳の劉弗陵(昭帝)を立太子し、幼帝の補佐として自らの側近であった霍光、桑弘羊、上官桀、金日テイに後見役を命じた。
B.C.87年、武帝が崩御すると昭帝が即位したが、翌年に金日テイが死去すると霍光、上官桀と桑弘羊との主導権争いが発生。
内朝を代表する霍光、上官桀と外朝を代表する桑弘羊との対立は日毎に深刻化し、霍光は桑弘羊を排除すべく全国より集められた賢良・文学と呼ばれる儒学生の後押しをし、桑弘羊主導で行われた専売制・均輸・平準を廃止する建議を出した。
『塩鉄論』である。
しかし経験豊富な経済官僚であった桑弘羊は儒学生の建議を論破して霍光の計画は一旦失敗した。
その後、桑弘羊も霍光に対抗するために上官桀と接近した。
そして昭帝の兄、燕王劉旦と共謀し霍光を謀殺、昭帝を廃するクーデターを画策したが失敗、上官桀と桑弘羊の一族は誅殺された。
これにより霍光が政権を掌握、自らの一族を次々と要職に登用し霍光を中心とした政権運営が行われることとなった。
霍光は武帝時代の積極政策を転換し、儒教的な恤民政策に立脚した施策を打ち出した。
租税の免除、匈奴に対する和平策などである。
B.C.74年、昭帝が21歳で早世すると霍光は劉賀を皇帝に擁立.
しかし素行不良を理由として即位後まもなく廃位し、新たに戻太子の孫で戻太子の死以来市井で生活していた劉病已(宣帝)を皇帝に擁立した。
即位した宣帝は自らの立場を理解して霍光を尊重したことで霍光による専権に変化は見られなかった。
しかしB.C.68年、霍光が病死すると宣帝は霍一族の権力縮小を図り、遂にB.C.66年に霍一族を族滅させ親政に着手した。
宣帝の政治は基本的に霍光時代の政策を継承した恤民政策であった。
全国の地方官に対してこれまでの酷吏のように締め付けるのではなく、教え諭し生活を改善できるように指導させる循吏を多く登用している。
一方、宣帝は酷吏も使用し豪族に対しては厳しい姿勢で臨んだ。
外征面においては、匈奴国家において短命な単于が相次いだことで匈奴帝室の単于位を巡る内紛が芽生え、天候不順によって遊牧経済が著しく悪化したことに乗じて、B.C.71年、校尉の常恵と匈奴と対立する烏孫の連合軍による襲撃で3万9千余人の捕虜、70万余の家畜を得て匈奴に壊滅的な打撃を与えた。
さらに西域に進出し、B.C.60年には匈奴国家が西域オアシス諸国家の支配・徴税のために派遣していた日逐王先賢 を投降させることに成功。
これを機に西域都護を設置し、帰服した日逐王を帰徳候に封じた。
匈奴国家の体制は西域放棄によりさらに衰退して内紛を激化させ、五単于並立の抗争に至った。
呼韓邪単于は匈奴国家の再統一を進めたが、兄の左賢王呼屠吾斯が新たに即位してシツ支単于を名乗ると、これに敗れた。
呼韓邪単于は南下して漢に援助を求め、51年には自ら入朝して宣帝に拝謁し客臣の待遇を得た。
シツ支単于も漢へ使節を派遣したが、あくまでも旧来の対等外交を求めたために外交戦に敗れ、勢力を西方伸張させた。
これにより匈奴国家は漢に臣従する東匈奴と、漢と対等な関係を志向しつつ対立する西匈奴に分裂した。
これらの功績により宣帝は漢の中興の祖と讃えられる。

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