前漢(西漢)・全盛後
- カテゴリ:日記
- 2011/01/05 10:00:19
相次ぐ軍事行動は財政の悪化をもたらした。
また文帝時代から進んでいた商人の伸長と富の偏在なども深刻な問題となった。
これら大富豪たちは豪族と呼ばれる存在に成長していく。
武帝は経済官僚・桑弘羊を登用し塩鉄専売制を開始。
商人に対しては均輸・平準を行い、商工業者に対し新税を設置、国家収入の増大を図った。
しかし専売と新税により経済活動に打撃を受けた商人は没落し、貧民たちを指揮して盗賊化した者も発生。
社会不安に対しては武帝は酷吏と呼ばれる法家系の官僚を登用し、厳格な法治主義で対応した。
盗賊を摘発できない、又は摘発件数が少ない地方官僚は死刑とする沈命法を出した。
またB.C.106年に郡太守が盗賊や豪族と結託している現状を打破すべく、全国を十三州に分割し、州内の郡県の監察官として州刺史職を新設。
晩年の武帝は不老不死を願い神秘思想に傾倒、宮中では巫蠱が流行。
巫蠱とは憎い相手の木の人形を作り土に埋めることで相手を呪殺するもので、これを行うことは厳禁されていた。
それを逆用して、人形を捏造し対立相手を謀殺することが頻繁に行われた。
B.C.91年、皇太子・戻太子が対立していた酷吏・江充の策謀により謀反の汚名を着せられ、追い詰められた戻太子は長安で挙兵し敗死した(巫蠱の乱)。
後に戻太子の巫蠱の嫌疑が無実であったことを知った武帝は、江充一族を誅殺した。
皇太子を失った武帝は老齢も重なり気力を減退させ、周辺部への進出はこれ以降は止められた。
武帝時代は漢の絶頂期であったが、同時に様々な問題点が噴出した時代でもあった。