うららの病状もだいぶ良くなってきたある日、
「どうした、うららちゃん、妙な顔して? さては家に帰りたいんだなもうすぐ退院だょ」。
・・いっですか、先生? ・・、
「と言ってもまだ先だ、あと十日ぐらいかな。
明日から外へ出てもいいょ軽い散歩くらいならね」。
・・たとえば、向かいのマンションくらいなら、いいですか・・、
「いいょ」、
「よかったわね」お母さんも言った。
あと一週間と聞いたその日から、夜が来るのが待ち遠しくなった。
おじいさんが動くのは三回に二回は夜、それも五日に一度か一週間に一度だ。
そうそう、何かが起こる前には合図がある。手を上げるとか微笑むとか。
うららは一日中、窓から外をのぞく女の子になった。
「家に帰りたくないみたいね」すっかり仲良くなった看護婦さんが言った、
・・帰りたいけど、病気なんか嫌だもん・・。
でも帰れるとなると、おじいさんの事がますます気にかかってきた。
それから一週間、何も起こらないで過ぎて行った。
自分から訪ねて行こうとすると、なぜか足がすくんだ。
明日が退院という日、おじいさんの部屋におばあさんの姿があった。
誰かに世話をされているおじいさんを初めて見た、
おばあさんはベートーベンのおじいさんににつかわしく、
上品で優しそうで年をとったモナ・リザのようだった。
紅茶を窓際まで運んできた、おじいさんが体を起して煙草を吸い始めた。
・・これが、合図かしら・・、うららはワクワクしながら夜の来るのをまった。
夜のとばりがおりた、カーテンが揺れている。
と思っていると、昼間見たおばあさんがゆるい風のようにうららの病室に入ってきた。
お母さんは仕事で疲れて寝ている、
おばあさんは軽く頭を下げて招き猫のかっこうをして右手を動かした。
うららには何もかもわかった、
招き寄せられている事。
お母さんにだまって抜け出すと心配するので、
公園に散歩に行ってきますと書置きをして出た。
おばあさんの後ろについて病室をぬけ、道を横切り、マンションに入った。
おばあさんは足がないみたいでふわふわと揺れ、
おじいさんの部屋のドアを通りぬけた。
扉が開いた「よく来てくれましたね、リトル・レディ」、おじいさんが出迎えたくれた。
中々立派な広間になっていて、今日に限ってベッドも見当たらない。
壁際にいつか見たミュージシャンが五人、楽器を持って座っていた。
おじいさんはそれこそベートーベンのような黒いエンビ服に白い蝶ネクタイとしゃれこみ、
うららの手をうやうやしくとって「一曲、踊ってくれませんか?」ダンスを申し込んだ。
窓際のミュージシャンがいっせいに拍手した、
うららは引っ込みがつかなくなり、目線を胸におろした。
・・私・・病院で着ているパジャマが目に入ってきた、
おじいさんはうららの心を読むように。
「心配はいりません、おばあさんに言ってイブニングドレスに着替えるといいでしょう、
おばあさん、おばあさん」、
と、呼びうららだけに聞こえるように。
「若い時はあなたのようにそれはそれは綺麗だったんですょ、
今はおばあちゃんになりましたが」。
あばあさんはうららを別室に連れて行き衣装棚のカーテンを開けた、
その中には何十着という洋服やスカートやドレスがハンガーに吊り下げられていた。
・・まぁ、素敵・・うららは見て驚いた、
・・これみんなおばあさんの?、
このブルーのカーデガンも・バラ花の模様のドレスも・タータンチェックのスカートも・・。
と聞いたがおばあさんはにっこりするだけで、
バラの花の模様の付いているイブニングドレスを出してうららの胸に当てた。
ちょっぴりふくらんだ胸にそのドレスはよく似合った、
うららは部屋に戻り、長いすそを心もちつまんで、ひざをおって挨拶をした。
おじいさんがゆっくりと言った、
「ん、すばらしいょ、マイ・フェア・リトル・レディ」。

静かに思い出のワルツが流れ出した。