自分には使えない言葉
- カテゴリ:人生
- 2010/11/22 23:57:57
今年も、もうそろそろ「今年の流行語」とやらを選定する季節がやってきました。
各年々を象徴した言葉たちも、残るものあり、去るものあり、どうなっていくのか眺めているのは、結構わくわくするものです。
その中には、「(他人が使用するには全く構わないのですが、)わたしには、使えないなぁ」と感じる言葉が、いくつか在ります。
その筆頭は、「アラフォー」ですかね。
この街のブログのタイトルには文字数制限があるので、「アラフォー」ですと5文字も使ってしまう、という部分もあるのですが。「不惑」なら2文字ですもの。「不惑直前」ですら、4文字。
……という問題ではなく。
この言葉は、2年前にテレビドラマが流行らせた言葉で、実は「アラサー」からの派生語とのこと。
「独身女性」は自分にも当てはまるのですが、どうも、原義には「80年代中頃を大学生・高校生として送り、バブル崩壊前に社会人になった最後の世代」という含意を感じてならないのです。
もしも淡々と学生時代を送っていたのでしたら、自分も「土砂降り」と呼ばれた年(未だ「氷河期」ではありませんでした)に卒業年度を迎えていた筈なのです。けれど残念ながら、わたしは大学生としては不真面目を極めました。その為に卒業が数年遅れ、世の中はすっかり就職氷河期でした。
ですから、きちんと四大を正規の年限で卒業し、卒業と共に会社人になれた高校の同級生(でも既婚)を「アラフォー」と呼んだり、自分よりほんの少し年下でも、高卒で売り手市場のうちに就職できた方(やっぱり既婚)をもうそろそろ「アラフォー」と呼んだりはできても、自分は、不惑になろうが、不惑を過ぎようが、「アラフォー」にはなれない、と感じてしまうのです。
「アラフィフ」「アラ還」に至っては更に派生語だそうで、ここまでくると(、10年近くのちのことですし、もしそのときまでこれらの言葉が生き残っているならば)「まあ、いっかー」と思うのですけどね。
とはいえ、この世代も、大変なようです。(完全に他人の目。)
わたしが未だ学生で、卒業の見込みが残されていることに気付いて単位の掻き集めに奔走していた頃、既に、わたしよりほんの少し年上の世代は会社から「バブルの遺児」呼ばわりされていたのです。
彼らの就職戦線は超売り手市場で、学生側が贅沢を言える時代でした。
その下の、わたしが卒業したときの世代は正社員就職できた者自体が少なくて。
例えばわたしが属していたサークル(2つありました)の女子率の高い方では、正規の年限で卒業した後輩の女の子の進路は、院進学or国家公務員orフリータで、民間就職は皆無でした。その、院進学を果たした子たちは院了後、やはり、国家公務員になっております。
今、(民間の)会社では中間管理職の担い手の世代が不足していて大変なのだと聞き及びます。
経験と実績がモノをいうお仕事。わたしには縁の無い世界ですが……。
この手の、あまり練らずに発生する語は、その場の流れで解釈できますから、あまり困らないのです、音声でしたなら。文章中に用いられると、確かに悩むでしょうね。
母(近年は、百貨店で日々雇用バイト)に、「『全然大丈夫』は、大丈夫なの?」と訊ねて、笑ったことがあります。
この辺りが、わたしが自然言語に惹かれる理由かしら。
プログラミング言語は人工言語。とにかく、まず文法在りき。マシン語で出来ることが頭にあれば、効率のいい(高級言語の)ソースもおのずと見えてしまう。
対して自然言語は、まず言葉が変遷してゆき、それを言語学者が解釈しようとして規則性(即ち、文法)が在るかを探ってゆく。使われ方は感性的で、通じるかどうかは、その言葉を聴いて貰いたい対象への「多数決」。
趣味として、これほど飽きのこないものはありません。
悪さばかりしていたので、「ヤバイ!」と聞くと
全力疾走して逃げ出してばかりの
過去の記憶が・・・。