Nicotto Town


としさんの日記


「山男とサーファー」17


 一八九五年。英国人ママリーによって、初めて八千㍍峰の挑戦が始まった。
 一八九五年は日本の元号では明治二十八年である。
 チョモランマやK2ではなく、14座ある八千㍍級(クラス)の中で、ナンガ・パルバットが、最初に人類の標的にされたというのは、どういった理由があったのであろうか。
 ノーマンコリー、へースチングという、最も信頼のおける仲間と共に、魔の山へ向かった。そして最も勇猛で、英国王室の衛兵にも登傭される、グルカ兵二名を引き連れ、何度かの挑戦を試みた。南面のルパール氷河側から、ルパール壁を望み、あまりの難易さに、ディアミール氷河のある西側、そして北面のラキオト氷河側へと移動し、頂上アタックを開始した。だが八月二十四日のアタックから、彼はついにグルカ兵二名と共に、帰還することはなかった。

 ヨーロッパ・アルプスでの数々の実績と栄光が、彼を未知のヒマラヤへと駆り立てたのだろう。
 冒険家というのは、概ねそういう人類初という誘惑にとりつかれる人種なのかもしれない。
 
 チョモランマ=エベレストは更に遅く、一九二一年、大正十年に入ってからである。
 当時英国領であったインドの測量局長官、ジョージ・エベレストの名をとってエベレストと名付けた。もともとエベレストはチョモランマなのである。しかしそれには訳があった。一八五一年までは、当時の最高峰の山はカンチェンジュンガとされていたが、測量局のインド人局員の、三年にわたる観測、計算の上で、事実上の地球での最高峰の山は、チョモランマであるという事が判明したのである。それが一八五二年のことである。
 ゆえに、英国にとっては、エベレストは特別な山であり、またナチス・ドイツをも含めたドイツ・オーストリアにとってナンガ・パルバットは特別な山であり、米国にとってのマナスルと、それぞれの国の― 威信 ―といっては大袈裟だが、初登頂は、各国の山岳会はそれを名誉と捉えていた。
 それゆえ、俺と同じような気持をもって、多大な犠牲を払ってまでも、登頂を目指したのかもしれない。
 当時ネパールは独立した小国家であり、ダライ・ラマが入山の許可を与えなかった。英国は第三次遠征隊以降、九年間というもの間、遠征を断念せざるを得なくなる、という憂き目にあう。そして一九三八年の第七次ティルマン隊を最後に、英国隊はしばし沈黙する。第二次世界大戦の勃発によって、登山どころではなかったというのが真相であろう。

 そして一九五八年、ジョン・ハント隊のエドモント・ヒラリーとダワ・テンジンが五月二十九日の午前十一時半に、人類初の地上で最も高い高所、エベレストを制覇したのである。
 しかしこの年の六月二日に、英国の新君主である、エリザベス女王の戴冠式があった。それに間に合わせる為に急いだとは思いたくないが、あながち、見当違いな見方ではないかもしれない。

 一九五三年。昭和二十八年。そして前年の昭和二十七年は、日本にとっても激動の年であった。
 昭和二十七年二月十七日、フィリピンでは未だ太平洋戦争は終わっておらず、元日本兵とフィリピン警察隊との戦闘がある。一月二十一日、札幌市警の白鳥一雄警部が射殺され、共産党員の村上国治が逮捕される。いわゆる白鳥事件という冤罪事件である。二月十九日、海上警備隊新設を政府が発表。三月四日、北海道十勝と東北の三陸地方にマグニチュード8の地震が発生、死者三十三名。日米安保条約の発効、自衛隊の前身である保安隊が発足し、前年の昭和二十六年に設立されたばかりの日本航空第一号機 『木星号』が伊豆大島の三原山に墜落。尊い人命が失われた。
 また、明るい面としては黒澤明監督の『羅生門』がアカデミー賞を授与され、白井義男が日本人初のボクシングの世界チャンピオンになった。
 昭和二十八年には、二月一日にNHKがテレビ放送を開始し、吉田茂首相がバカヤロー答弁により三月十四日にバカヤロー解散となる。そしてソ連の独裁者スターリンが三月五日に死去した。
 日本では、そういう世相の時代だったのである。登山どころではなかった。
 いまだ戦後の復興がならず、民主主義のはきちがいによるデモが頻発し、昭和二十七年の五月一日は血のメーデーと呼ばれ、東京でデモ隊が暴動化し、警察隊と乱闘になり死者もでた。

 戦勝国と敗戦国とでは、それほどの開きがあった




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