Nicotto Town


としさんの日記


「山男とサーファー」16


 八

 ついに決行の日が来た。満天の星ぼしのきらめきは次第にうすれてゆき、白々と夜が開けていく。
 魔の山ナンガは、薄明の中に、その壮大なシルエットを浮かべていた。


 黙々と荷物の点検を続けている俺は、背中に四人の男たちの熱い視線を感じた。すべてを完了した俺は、M君のさしだす熱いコーヒーを受け取り、無言でそれを口に運んだ。ツェルトの中には、いつしか重苦しい空気が漂っていた。
 全員で時計を合わせる。トランシーバーもテストした。万が一の為に、小型の酸素ボンベ。1本で10分持つ。それを4本。総重量25キロ。単独登攀という無謀な賭け。それを知り尽くしている仲間たちとの固い握手。もう誰も、何も言わない。
 無言の固い握手は『帰って来いよ』と、大きな言葉になっていた。

 ツェルトを出ると、俺は一歩一歩氷河を踏みしめ、メタルシャフトのピッケルを天空にかざした。
 俺はうしろを振り返らなかった。
 ピッケルの銀色の輝きが、やってくるぞと皆に告げてくれる。決して別れを告げた訳ではない。帰ってくるぞ、という意思表示を込めた命の輝き。

 ディアミール側の氷壁に取り付いて、既に五時間を経過していた。
 水銀柱はマイナス10度を指している。
 吐く息は白く、カシミヤの目出し帽が、防寒と凍傷を防いでくれる。口の部分は切り開いた。しかしピッケルとアイスハンマーを交互に突き立てていた腕も、しだいに重くなり、疲労のためか、テラスの上のアイゼン(足)も、自身の躰を支えるのもおぼつかなくなってきた。
 容赦なく照りつける陽射が恋しくなる程に、手足の先が痛みはじめる。セルフ・ビレーをとって、携帯用のポットからコーヒーをコッヘルに注ぎ、それをゆっくり飲んだ。
 日が沈む前にビバークに入らねばならない。
 予定地点まであと僅かである。躰の中に少しづつ生気が蘇りつつあった。

 二日目の朝を迎えて、天候は極度に悪化しはじめていた。ツェルトの周りを風速50㍍以上の突風が吹き抜ける。
 モンスーンではないだろうな。
 俺はトランシーバーを使って定時連絡に入った。

 「こちら・・・ベースキャン・・プのYです。・・・・か! 元気か!・・・・元気ですか!」
 通信状態が良くない。切れ切れに聴こえる。しかし、いつもの張りのある声である。おとといの、彼の弱気な独白がまるで嘘のように元気だ。
 「・・ェル・・は大丈夫か!」
 交替したT氏の声である。

 ヒュゴーという風の唸り。バサバサとツェルトが音を立てて震える。実に賑やかだ。恐らく、こちらと同様に、BCも、先日と同じくらいの荒れ模様に見舞われているらしかった。
 「ご心配なく、こちらは極めて順調、どうぞ」
 「それは良かった・・・・どう・・・」
 「聞こえますか、どうぞ」
 「ああ、こちらは・・・良く聴きとれるよ」
 「残念ながら視界不良の為、ベースキャンプを見ることができませんが、たぶん明日は元気な姿をお見せすることが出来るでしょう、どうぞ」
 不安を打ち消すために、俺はYさんに負けないくらい大きな声を、トランシーバーに向かって張りあげていた。朝になったが、余りの風の強さに身動きがとれない。今日は一歩も動けないだろう。
 俺の頭の中で、サイモン&ガーファンクルが”ボクサー”を唄っていてくれた。

 ツェルトの中で俺は今まで読んできた無数の本の、ヒマラヤについての歴史を思いおこしていた。




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