Nicotto Town


としさんの日記


「山男とサーファー」8


「だから大丈夫ですよ。あなたはとりわけ、心臓が丈夫だ。毛も生えてるみたいだし・・・いや、それは冗談として、平常時、脈搏は五十前後なんでしょ。まるでマラソン走者みたいだけど、完璧なスポーツ心臓だと思いますよ」
 従弟のS君は、にこやかに笑いかけて、俺にコーヒーをすすめた。俺は受け取って頷く。皆の云うことが一つ一つ理に適っていると思えた。

 「重量のことばかりにこだわっていて、肝心なものを忘れていたら、命取りになるということですか」
 それまで黙って俺たちのやりとりを聞いていたYさんが、急にどきりとするようなことをぼそりと云った。
 フリーカメラマンであり、メカニックに強いYさんは、メスナー方式を極端に嫌っていた。

 「ずいぶんと過激な発言だけれども、確かにそういったこともいえるでしょうね。その人の持っている能力的な問題もあるでしょうし、誰もが、ラインホルト・メスナーのような強靭な肉体と精神を神より授かっているわけではないから、生き延びる為に、あらゆる可能性を追求していかなければならないと思います」

 T氏は、Yさんの云わんとすることが分かっていた。むろん俺にも分かっていたが、何か云おうとする思いを、熱いコーヒーといっしょに腹に飲み込んだ。
 それはメスナー個人に対する非難ではなく、ある一線を越えようとする人間の心理の不可解さに対する疑念の発露であり、より過酷な状況を好んで求める人種、に向かっての問いかけでもあった。それはもちろん、俺個人に、今は向けられているのかもしれない。

 「ボンベのこともそうだけど、僕は、ダワ・テンジンとまではいかなくても、シェルパの一人ぐらいは雇うべきだったと思います。どのような綿密な計画を立てようと、自然を前にして我々は無力な存在です。自然は、我々の想像を遥かに超えたものである以上、少しでも熟知している人間の、経験とか智慧を借りれば、凶暴な牙を秘めたこいつでさえ、必ず征服できるのではないかと思うのです」
 これは、ただ闇雲につっぱしってきた、俺に対する、Yさんからの警告であり、助言でもあった。
 最初、メスナーのコピーを目指していた俺にとって、一つ一つ櫛の歯が抜けるように、彼らの提言に妥協していったのも、自らが、しりに殻のついたヒヨコのような存在として認め、間違っても、鉄人アルピニストの真似などは不可能だと悟ったからである。
 俺の無二の親友が海で散ってしまったのも、多少の優れた才能と技量に自ら溺れ、自然が隠し持っている魔性の牙を見落としてしまっていた、からかもしれない。




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