Nicotto Town


としさんの日記


「山男とサーファー」7


 四、

 ベースキャンプに着いてから二日目。天候は少しづつ悪化していった。
 聳え立つナンガの威容は完全に雲上に隠れ、時々雪崩の音が腹の底に響く。
 突風が、引きちぎれよとばかりにテントの周りを回り、風の唸る音のみ、ただ辺りを席捲している。
 俺はただ黙々と携帯荷物の点検をしていた。
 作戦会議も幾度となくやった。自分なりに考え抜いた作戦も、友人らによって、大幅な譲歩を余儀なくされた。酸素ボンベ及び無線機の携帯と予備のツェルトの持参などがそうだが、ボンベはともかくとして、無線機は置いていきたかった。自分なりに、体力的に大幅な重量の軽減が不可欠であると考え抜いていたからである。たとえ一キロであろうと百グラムであろうと、無駄なものは一切省きたかった。

 「私が一番気にしているのは、体力の消耗ということなんです。私たちが今いる海抜四千㍍の地点で、すでに六百ミリバールを越えた低気圧帯に入っています。通常の酸素供給量を100と考えた時に、ここでは30%以上も減じています。つまり私たちは、すでにここに居ながらにして、心臓にかなりの負担をかけているのです」
 T氏は続けて云った。
 「もう少し詳しく説明しましょう。大気中から酸素をとりこむ酸素摂取量は、人によって違います。その酸素を体のすみずみまで送る赤血球中のヘモグロビンの量と心臓の拍出量が、個個人の体力の差となって現れますが、特に重要なのは心拍出量の問題です。人間の最大酸素摂取量は人によって違うけれども、多いほうが良いに決まってます。フィックの原理というのがあって、酸素摂取量は心拍出量と、動脈と静脈にある酸素の含有量の差を掛けあわせたものが、酸素摂取量になります。つまり、取り入れたものをどれだけ早く、体のすみずみまで送ってやれるか―心臓の機能が勝れていれば、それだけ体力の回復も早いし、運動能力の限界も高いわけです。 私は君の実験を通して、一般人よりも回復能力の速さに目をみはり、こんな無謀に見える単独行でも、一縷の望みに希望を託して送りだすのです」
 (現在では、ミリバールでなく、ヘクトパスカルである)
 「だから、酸素ボンベの携帯は、ナンガに挑戦するうえで、短期決戦でもあるし、ビバークしたらただちに使用して、体力回復につとめるというわけですね」

 友人のM君は、T氏の説明に頷きながら云った。
 彼は高校の山岳部以来の友人だが、俺にとっては、ロッククライマーとしての一家言をもつ彼の助言に、随分助けられたことがある。いわば、俺のよきライバルであり、また師匠でもあった。




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