Nicotto Town


としさんの日記


「山男とサーファー」6


俺は俺なりに、基礎体力をつけるために、一日十五キロのランニングと五百回の腕立て伏せ、そして鉄棒のぶら下がり及び懸垂(チンニング)の三十分間は欠かさずやってきた。握力をつける為、硬式テニスボールを、常に肌身離さず持ち歩きもした。しかしそれにも増して大変だったのは、いかに高所順応の体を作りあげるかだった。
 数年前に、ネパールのアンナプルナ連峰に、山岳会の一員としてトレッキングに参加したきり、これといった活動はしていなかった。
 もっぱら、国内の谷川岳一ノ倉沢や乗鞍岳に何度か出かけてはいたが、実戦的なことと云えば、一ノ倉沢の烏帽子沢奥壁の変形チムニールートによる、奥壁登攀だけであった。
 その為、そうおいそれとは順応できる訳がないと思っていた俺は、T氏の紹介によって、ある医学研究機関に依頼して、特殊な実験室を借りた。
 二週間かけて、その実験室で徐々に劣悪な状況下を作っていただき、そこで順応することができるのか試みたのである。
 初めから、マイナス十度以下の室内において、酸素の量を徐々に減らしてゆき、山に見たてた階段を昇り降りしたのである。
 完全密封された室内には、別に炊爨とトイレに使用する部屋があった。サーキュレーターによる空気循環を行い、それと共に真空ポンプで徐々に空気を抜いていく。酸素供給濃度のボーダーラインは10%までであった。それ以上薄くすると、生命の危機に晒されることになるからである。むろん、万が一に備えて、酸素ボンベは備えつけてあった。

 メスナーが聞いたら、驚き呆れることだろう。あくまで一個の人間が自からの持てる力を最大限発揮し、大自然に挑戦するという彼の姿勢から見れば、科学の力をフルに利用する俺の考え方は邪道に映るかもしれない。しかし六千㍍クラスまでしか経験のない俺にとってみれば、八千㍍は全く未知の世界であり、鉄人と異名をとる名アルピニストに太刀打ちできるわけなどなかった。
 そして、ここで音をあげることがあれば、俺はナンガをキッパリと諦めるつもりでいた。

 実験を始めた当初は良かったのだが、酸素が希薄になるにつれて、猛烈な睡魔と倦怠感に襲われはじめた。肺が充分な酸素を摂取できない為に、脳に供給するヘモグロビンの量が減り、心拍数が百を越えて、朦朧とした意識の中で、睡魔と倦怠感と息苦しさを一遍に味あうことになった。
 そのような俺の状態を見て、立会いの研究員は実験の中止を勧告した。むろん俺は拒否したが、まるで金魚のように口をパクパクあけて呼吸し、蹲っている俺を見て、危険に感じたのかもしれない。急激な気圧の低下ということはないから、そう深刻になることもないのだが、それでも肺水腫を起こしたり、急性心臓肥大症に罹患しないとも限らなかった。
 実験の最終段階に入ると、より行動が緩慢になった。冷気を深く吸い込み、しばらく肺の中に溜めこんで、それからゆっくりと吐き出し、そろそろと階段を昇る。上でザイルを結び、慎重にクライミングで降りる。
 そういった行動の繰り返しだったが、そうした合間にも、凍傷に罹らないように手を揉み、体を動かし、時折眠気ざましに顔を叩いた。
 食欲もなくなった。それでも血液濃度を上げない為に湯をたっぷり飲み、流動食を少しづつ摂取した。
 こんなことをして、実際のナンガでどれだけ役立つのか分からなかったが、ナンガへの想いはますます強くなっていった。現地では恐らく予測もし得ない出来事が、次々と降りかかるだろう。大自然の巨大な壁に立ち向かうには、これぐらいのことで挫折していては、到底及びも付かない。
 混濁した意識の中で、俺は、はっきりと何かを掴んだのである。

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2010/09/13 17:37
あきさん、コメありがとう。<(_ _)>
最初、おいらの娘(亜紀)が、まさかこのサイトにいる?なんて、どっきりして、あしあと辿ったんだよね。

忌野清志郎君は、色々な意味でライバルであった。彼が音楽でビッグになったなら、おいらは得意の文筆でビッグになってやろうと思っていた。

一期一会の出会いだったけど、おいらは生きているうちに、ノーベル文学賞取るつもりでいる。

他の賞はいらない。もう20作品ほど書いているけど、こちらへは1作品のみの発表だけ。

清志郎君への、弔い合戦として、例え出版しなくとも、こうして発表出来る場があって最高だね。

いい作品ならば、黙っていても読者が出てくる。応援お願いしまーす。(^_-)-☆
アバター
2010/09/12 16:50
コメありがと●~*
いまわの清志郎っておかぁさんの
大大大大大大大ファンだよ(>_<)
亡くなったときとっても泣いてた(>_<)



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