Nicotto Town



三つの約束

今日は、私が、今まで生きてきた中で、忘れられないお話をします。
人間というものは、ほんと不思議だな?と、思うお話です。
ここでよく登場する私の母は、祖母(父方の母親)と、同居していました。
それは、ひどい嫁いびりだったそうで、母は、私によく愚痴を云っていました。
やがて、その祖母も寝たきりになり、そんな体でも介護する母に
祖母は罵声をあびせていたそうです。
その様子は、実家を出て独り暮らしをする私には、知る余地もなく、
断片的にしか聞かされていませんでした。

ある日、介護に疲れた母から、電話がありました。
「お兄ちゃん、いつまで、こんなことつづくんやろ?」と、母は泣きました。
私は、その言葉が、心に突き刺さりました。
祖母と母のその長いぎくしゃくした関係を知っていましたが、介護の中で
母が祖母の死を待っているようで、、、
いや、介護という過酷さは、そういう人をおかしくしてしまう危うさを
抱えているものかもしれません。
しかし、ショックでした。母に、かける言葉もなく。月日は流れました。


そんなところへ。
1995年1月17日、神戸に阪神・淡路大震災が発生します。
ニュースを見てもなにが起こったか把握できない私は、横浜から神戸まで、
寸断された鉄道をあっちこっち乗り継ぎ、
12時間もかかって親たちが避難した学校へようやくたどりつきました。
見ると教室の一畳ほどのスペースに、母と父と祖母が横になっていました。
そこへ着いて、あれこれ震災からここへ避難するまでの様子を聞きました。
そして、母は、私が来たので、祖母に云いました。
「おばあちゃん、誰かわかるか?」私のことをです。
祖母は無反応でした。溺愛してた孫がわかりません。
祖母のボケは、地震で、より進行したのです。
母は、さらに、「この人誰かわかるか?」と、
祖母を後ろから優しく抱え、父の方へ向けました。
無反応です。実の息子なのに、、、
ある意味溺愛する息子の嫁ということで、母へのいびりがはじまったのに、、、
その大切な息子(父)がわからないのです。
母は、さらに、「じゃ、私はわかるか?」と、云ったときです。
はじめてその言葉に反応したのです。
「あんたが、わからんで、どないすんの。」と、祖母はボソリと云いました。
母だけは、どんなにボケが進行していても、唯一わかるのです。
それは、介護をすることで生まれる信頼のようなものを私はかんじとりました。
過去にそんなことがあった二人の間に。


やがて、祖母は、その避難場所では、長くいられるはずもなく病院に入院しました。
そして、三か月後に他界したのです。
内の祖母のように、病院で、仮設の家で、多くの方が亡くなりました。
これが、この震災での二次的な悲劇の実態でした。


それから数年が過ぎ、母が私に告白することがありました。
「おばあちゃんと約束してたことがあったんよ。」と、私に話してくれました。
祖母との間に交わした守れなかった三つの約束の話を。

一つは、家で死にたいということ。(病院ではしにたくない)
二つ目は、母に手を握ってもらって看取られたい。
三つ目は、友人に自分の死を伝えてほしい。

寝た切りの祖母にとって、これはささやかであるが切実な遺言だったんでしょう。

地震がなければ、どれも、とても簡単な約束でした。
だから、母は、いつもその約束のことを口にする祖母に「わかった。わかった。」
と、笑って軽く返事していたそうです。
ところが、震災のため、これが何ひとつかなえてあげることができなかったのです。
祖母は、母に看取られることなく(母は避難所での生活の為、
遠く離れた病院にはすぐにはいけなかった)病院で、一人で、亡くなりました。
その後、祖母の友人も地震の避難で何処に行ってしまったのか
わからないままで、、、
母は、この簡単な三つの約束を、一つも守れなかったのです。


今でもそのことで、母は泣きます。
母は、15年たった今でも、それを背負って生きているのです。

人と人がうまくいかない社会は、どこにでもあります。
小さな家庭、学校、会社。どこにでも。
私は、いつも避けている。
まして自分をいびりつづけていた人への介護など
私には考えることもできない。

しかし、もしも、それを逃げなかったら、人間というものは、、、
もしかして、そのさきに、、、、
と、私は考えるようになりました。

この母の人生をとおして。

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2011/09/10 17:34
いろは、
親が反面教師でも
いいんじゃないかな。
ボクの場合は、父だけど、、、
(結婚できない理由もそこにあるのかも^^)
父にならないようにと、ボクは、ずっと意識してます。
だって血をひいてるから、油断すると同じことしてしまいそうで、、、
でも、それでも、父を嫌いにはなれないし、
もう一度、生まれてくるとしても、同じ父であってほしいのは事実。
それと、憎んだり恨んだりすることが、一致しないから
親子って不思議。
いろは、尊敬などしなくても、親不孝でも、
親子である事実は、すごいことなんだよ。

うまく云えないけど、ここで、いろはから感じる感じは、
そんなことを感じさせない素敵な人ですよ。
きっと、うまくいきますよ^^
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2011/09/09 23:06
けん丼の過去ブログ読みに来ました^^

けん丼のお母様も、嫁姑問題で苦労されたんだね。
うちの祖母も口が悪くって、わがままなの。
自分の非は絶対認めないし、孫の私でさえお手上げ状態です。

私が母の立場なら、間違いなく離婚を選択していたでしょう。
幼い頃から、自分の家には「家族愛」と言うのを感じたことがありませんでした。
そんな家庭環境で育った私は、甘えることも頼ることもできず、、、
大人になった今でも、この性格をしんどく思うときもあるよ。
素直に自分の気持ちを表現できないし、ついつい無理をしてしまうし。

私の母は父親の顔を知らないの。
生まれてすぐ亡くなってしまったと聞いています。
なので、母子家庭で育った母はある意味「家族愛」を知らない人なのかも知れません。

私は母のようにはなりたくない・・・ずっとそう思って生きてきました。
そして、母のような親にもなりたくない・・・そう思って子育てをしてきました。
私がそんなことを思っていると母が知ったら泣いてしまうかもね?
私は多分、親不孝な娘・・・親を尊敬できないんです。

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2010/09/05 17:41
そっか、misakiさんも好きなんだ。

この歌詞が、ホントいいんだよね。

ダメなときに、人が前に進むための力をもらえるステキな歌詞ですよね。

うるうるしながら、元気にさせられる。そんな唄ですね^^

偶然、ここのブログにぴったりの歌詞ですね
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2010/09/05 17:13
伝言板ゎぁんまり書けないので、BLOGに書きま~す(^O^)/

BLOGにコメぁりがとうござぃます!!

ぁたしもBaby Don`t Cry好きです♪

今ゎBreak itとかGet Myself Backもぃいですよ~(^◇^)

でもぁたしゎやっぱりayuが一番です(//Δ//)
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2010/09/04 22:22
ぺぐぺぐさんとこも、それで、今のところへ。
そう、大変でしたね。
地震という天災は、ホント、人の心に深い深い傷を残していきます。
ぼくは、この話を前から少しづつ書き足して、随分時間をかけ、今日、ブログにのせました。
老人の介護ついて、地震のおそろしさについて、母と祖母の二人の人生について、
このとき、いっぱい考えさせられました。そして、これを友人にも、私は話しています。
このときに感じたことを、伝えなければと、いえ、ただこの取り留めのない想いを
聞いてもらいたいのかもしれません。
叶えられなかった三つの約束は、母にとっては、辛い辛いできごとですが、
私にとっては、二人がそんなにつながっていたんだということを知ることができた話でもあります。
青年期に、母と祖母がそんな関係だったことを知ったときは、それはそれは悲しかったんです。
それを、母と祖母は、このときの悲しみをボクから見事に取り除いてくれたのです。
ですから、この三つの約束は、私の中で、悲しみ、無念さ、喜び、希望、救いと複雑な
想いがうずまき、これを思い出すだけで、わからない涙がでてきます。

いまだに母は、地震による後遺症の鬱がたまにでます。
だから、これからも、そのときの叶えられなかった約束の心残りを
聞き続けてあげようと思ってます。
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2010/09/04 21:44
しおちゃん、読んでくれてありがと^^
読むの大変だったでしょ^^がんばったね^^
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2010/09/04 20:04
けんじさんのブログはいつも読んでて考えさせられます。
私も地震の時尼崎に居て大変でした。
私たち家族も仲が良かった方たちと別れて現在の所へ引っ越してきました。
あの地震が無かったら皆一緒に子育ても出来ていたと思います。
今では行き先も判らない方も居て皆ばらばらです。
人生ってほんとに先の事は分らないですね。
毎日を大事に生きないといけないですね^^
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2010/09/04 14:22
おおお!
かっこいい!



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