Nicotto Town


およよ・れおポン


登場人物は、(Against crop)

GABANと言っても、宇宙刑事の方ではない。
コショウだ。

コショウと言っても、小性ではないし、ましてや湖沼でもない。
粗挽き胡椒だ。

故障は僕の脳味噌か。

ここまで余談である。


スーパーで小袋に入った粗挽きコショウを買ってきた。
すでに、ウチにはコショウの瓶があるからだ。

古い瓶に新しい中身を入れようという魂胆である。

さて、ここでささやかな抵抗を感じた。
実害もなければ、逆に、有効だと褒められても良い話なのだが、かすかに精神の抵抗を受ける問題。

先に述べたとおり、コショウはギャバン。
仔細に述べれば「あらびきブラックペッパー」。

そして、まだ述べていないのが瓶の銘柄。
これが、S&B。
細部に言及すると、「ブラックペッパー(あらびき)」である。

ヱスビーの瓶にギャバンのコショウを詰める。

この行為は、なにか屈辱的なものではないか。

さて、これは、ヱスビーとギャバン、どちらの屈辱なのか。
本質を見抜かなければ、この命題に答える事は難しい。

そうだ、重要なのは本質だ。
瓶は作られたときから、コショウをいれるために作られた。
コショウは食品。

本質は「食べる」に行き着くだろう。

ならば、瓶よりも、コショウこそ主役にふさわしい。

すると、屈辱を受けるのはヱスビーの瓶。
さらに追求すれば、瓶の内面にわずかに付着し、残存していた、ヱスビーのコショウか。

せっかく、ついこの前まで「我が風味こそ購入者に最上の悦楽をもたらす」と自負していたのに、追加として瓶に投入されたのが、ギャバン。

これほどの屈辱は在り得ないのではないか。


よりもよって、このような屈辱をもたらした人物は、何を考えているのか。


そうだ!

二人は顔を見合わせた。
ヱスビーもギャバンも、目の前の人物に目を奪われて、購入者を忘れていた。

この問題は、二人だけの問題ではない。
当事者は三人だったのだ!

本質は一面で捉えられるものではない、視点を変えれば、違った本質が見える事も在る。

そうなのだ、そもそも、購入者が、銘柄の違う組み合わせを選んだのである。

その行為が本質なのだ。

屈辱を受けたのは二人。
そして、屈辱を与えたのが一人。


   ——おしまいーー

ここから、本当の余談。
この文は、事実に基づいて書いてある。
誰かがこれを読む頃には、コショウが瓶に入っているだろう。

それはともかく、もう一つの事実。

僕は、この十日間ほど、森博嗣ばかり読んでいた。
「人形式モナリザ」「黒猫の三角」「ZOKU」「ゾラ・一撃・さようなら」と読み終えたところだ。

つまり、この記事は読書感想文のようなものである。

#日記広場:小説/詩

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2009/02/28 20:56
森博嗣は、一年近く前にスカイ・クロラを読んだのが初めてでした。

森博嗣が名古屋出身で、50歳くらいか。
僕が愛知県岡崎市で育って、40。
どうも、なにかが共通する。
森博嗣が書いていることと、僕が普段思っていることが、けっこう似ているようです。

ですから、僕が書いてみたいことを、僕よりはるかに上手に、正確に書いてあるものを読んでいる感じです。

コショウの詰め替えの話は、いつも僕が考えていることの一つですが、森博嗣の書き方を意識すると、少し面白くなったようです。
アバター
2009/02/28 19:52
森博嗣…、なるほど。
ちょっと納得かもです。
犀川先生のは読んでましたが、それ以降は作品に波があって遠ざかってました。
書かれてる中では『人形式モナリザ』しか読んでませんね。;;

うちのコショウミル、中身の入れ替えができないタイプでした。
メーカーの良識を疑います。><;




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