Nicotto Town



サカイタイゾーの真実(1)


どちらを選ぶだろう。

そう考えさせられるドキュメンタリーを観た。

 

カナダにスキーに行った静岡県の男性。

偶然知り合った米国人に力を貸して欲しいと頼まれた。

一枚の写真を、日本にいる遺族に返還したいのだと言う。

 

亡くなった彼のお父さんは硫黄島で闘った兵士だった。

その時、捕虜にした日本兵に託された写真があった。

http://www.minkyo.or.jp/01/2008/05/0239239.html

 

日本兵と米国人兵士はお互いにフランス語が話せた。

会話を交わすうちに好意を持つようになった。

日本兵は写真の裏に、フランス語で何かを書き

わたしにとっては大事なものだから持っていて欲しいと渡された。

兵士の名はサカイタイゾー。

 

写真を託された男性は帰国後、静岡新聞に広告を載せた。

それに静岡テレビが協力することになった。

すぐに判明するかと思えたが、手掛かりは見つからなかった。

 

硫黄島帰還兵の会、名簿に名前がなかった。

 

硫黄島の戦いとは1945年2月、米軍が日本本土上陸の基地として狙い

その確保の為に栗林中将率いる小笠原師団、陸、海、兵士約2万1千人

米海兵隊6万人との戦闘(後方に10万)結果は目に見えていた。

 

6日もあれば制圧できると踏んでいた米軍

応援部隊も食糧、武器の補給もない小笠原師団は、実に一か月以上持ちこたえた。

自分たちがここで闘っている限り、本土にいる家族は大丈夫だ。

その思いを胸に指揮官、兵士たちは一丸となって最期まで、自決に逃げず戦い抜いた。

 

日本軍約2万人が戦死、米軍も6800人負傷者2万1千人(すべて約)

苛烈な死闘の孤島だった。

 

クリント・イーストヴッド監督が日米双方の視点から非常にフェアな内容で

映画化されました。『硫黄島からの手紙』『父親たちの星条旗』

 

遺留品保管から身元が坂本タイゾウさんだと判明。遺族も分かり

60年以上の歳月を経て、写真は遺族の手もとに戻った。

 

写真の裏に書かれたフランス語はボードレール『悪の華』の1節だった。

 

おお。。我が苦悩よ。静まり落ち着くがよい。

 

何故、彼は偽名を使ったのか。詩の言葉は何を意味するのか。

日本では分からなかった。

米国、国立公文書館、日本兵捕虜の尋問記録を調べた。

 生きて虜囚の辱めを受けず 

日本兵たちは捕虜になるくらいなら自決せよとの教育を受けていた。

捕虜になったことを恥じて、口が重く、何も喋らないのが普通だった。

資料は1枚あればいいところだが、サカイタイゾーの資料は分厚かった。

 

彼は硫黄島指揮官栗林中将直属の通信兵(暗号解読)だった。

硫黄島制圧の3日前に自ら投降してきたのだという。

彼は死傷者を減らし、戦争を早く終わらす為に米軍協力の道を選んだ。

 

当時、尋問した存命の通訳兵士は、サカイタイゾーをよく覚えていた。

非常に頭脳明晰の人だったと記憶している。

 

彼は画家になりたかった。パリに行きたくて、東京のアテネ・フランセ外国語学校で

教育を受けていた。そこでフランス語を習得したのだろう。

すべてフランス語で行われた授業、精神は個人主義であった。

 

彼は決して勝てることのない戦争で、意味のない死を遂げるのが嫌であったのか。

生きて自分の本当の人生を歩みたかったのだろうか。

 

終戦後、帰国した彼は待っていた妻と喫茶店で生計をたて、子どもを6人育てあげた。

絵筆は握らなかったという。人との交流を絶ち、静かにひっそりと暮らした。

 

彼の長男が語った。

煙草を愛した人でした。

戦時中、1日が終わると、戦友たちは車座になって座り

今日も1日生き延びたなぁと、煙草を一服吸っていたそうです。

余命もなく集中治療室に入っていた時も、煙草を吸うと言って看護師さんに怒られたら

反対に怒鳴り返していましたね。

「俺は戦友の為に煙草を吸うんだ」

煙草を吸ってね、それから亡くなりました。

 

硫黄島のことはほとんど家族に話さなかったそうだ。

深夜、一人でぽつんと煙草を吸っていたという。

    





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