時代はかわっている
- カテゴリ:映画
- 2010/07/09 23:26:23
「耳をすませば」を片手間で見ている。
何度か真剣に視たし、今日は、集中して観る気にはならない。
どうも、「耳をすませば」は、今の時代には滑稽に見えるから。
公開当時は、多少、時代錯誤な感じでも、それをあえてその時に作ってみせたことに意味があった。
しかし、今は違う気がする。
今は、大人がいない時代だ。
たぶん、今日「耳をすませば」をテレビで見た「大人」は、自分が大人であることを考えるよりも、「子供だった頃の自分」に浸っている人が多いだろう。
けっして、この映画を通して、大人としてどう在りたいかを考える人は、多くはないと思う。
あるいは、大人になって汚れたなぁ、、、などと、自分を茶化すくらいか。
大人になって持つ責任の一つが、子供たちに何を伝えるか、何を見せて、何を渡して、何を渡さずにおくか。
「耳をすませば」は、すてきな大人がでてきて、「こうした人がいたらよいね」と描かれているのだが、あえて、「良い人」という面しか描かれていない。
公開当時の、十年から二十年前と言う時代は、アニメでは、良い見本を描いてみせるべきではないかという考えが在った。
残念ながら、今の時代は、それではダメなような気がする。
今の子供から見える社会は、もっと違うはずだ。
現実の大人は、軽薄でチャラチャラしている。
そうした大人を見慣れた子供が、「耳をすませば」に登場する大人を見たとき、ニンゲンはとても軽い物だと勘違いしないだろうか。
いわゆる「平和ボケ」が連鎖してゆくだけのような気がする。
今の時代は、子供たちへ向けて、正直に、「バカな大人もいるし、悩んでる大人もいる」ということを見せるべきではないだろうか。
今の子供は、漠然とした不審感の中で生きている。
「ダメな大人」も見せてしまった方が、正直で良いと思う。
「良い大人」を見せるだけでは、片手落ちの時代だろう。