四大節。
- カテゴリ:日記
- 2009/02/14 12:53:48
去る二月十一日は建国記念の日だったが、
戦前は紀元節と呼んだらしい。
昔、祖母が『今日は紀元節やなぁ。昔は学校で紅白の饅頭貰ったわ』
と謂うので、知らない僕は『何を そんなに芽出度ゐコトが在るのさ?』と
訊くと『いや、そら紀元節やないの』と答えるので、
再び『いや、だから其の紀元節って何ですかって』
すると『戦争中は甘い物が少なかったのに紅白の饅頭が・・・・』
年寄りはマジ使えねぇw(-_-;)w ←こらっ!
此処は矢張り、文明の利器を駆使する、即ち
wikiってコピペるしか在るまい!!←って、どんな日本語よ ヽ(-_-;)
大日本帝国憲法下の祝祭日は
明治時代には「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」(明治6年太政官布告第344号)によって、
大正時代には「休日ニ關スル件」(大正元年勅令第19号)によって、
昭和時代には「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)によって定められていた。
祝日は、伍日在って
四方節;現在は四方拝・1/1
新年宴会;1/5
紀元節;現在は建国記念日・2/11
明治節;現在は文化の日・11/3
天長節;今上天皇の誕生日・現在は12/23 と為っていた。
四大節とは上記の祝日より新年宴会を除いたモノを呼ぶ。
先ず、四方拝とは、元旦 寅の刻に 帝が黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう:みかどの朝服)を召され、
天皇の属星(ぞくしょう:誕生年によって定まるという人間の運命を司る北斗七星の中の星)・
天地四方の神霊や父母の天皇陵などの方向を拝し、
一年の国家・国民の安康、豊作、無病息災を祈る宮中行事で、
平安初期.嵯峨天皇の御代に始まり、宇多天皇の時代に儀式として定着したという。
其の際、唱える言葉は「内裏儀式」・「江家次第」に掲載されており、
“ 賊寇之中 過度我身、毒魔之中 過度我身、危厄之中 過度我身、
五危(厄とも)六害之中 過度我身、百病除癒、所欲悩心、急々如律令 ”
とあるそうだ。↑僕には全く読めませんが一応 (-。-)y-゜゜゜
四方拝は皇室令が廃止された戦後も天皇家の私的行事として行われている。
正月の朝も早うから御所より私的に我々の安泰を願って下さるとは
えも謂われぬ有難さだ。
次に迎えるのが紀元節だ。
‘日本書紀’に記される神武天皇の即位(紀元前660年2月11日)を以て
日本が建国されたとする祝日。
辛酉年春正月、庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮。 - 『日本書紀』卷第三、神武紀
辛酉・庚辰は干支の周期で、‘朔’は太陰暦で月の第一日、若しくは新月を指す。
現代の天文知識に基づき 斯の日の月齢を計算すると、朔に中るそうだ。
日本書紀(ってかwikipedia)に拠ると、
在位76年・127歳で崩御したそうだ。ホントなら凄い。
天長節は、今上天皇(在位中の天皇)の誕生日を祝う日。
天長節の名は古く、
唐は玄宗皇帝の誕生日を天長節と祝った事に由来するそうな。
天長は老子の「天長地久」より取られたらしい。
明治節は明治天皇の誕生日。
明治天皇の在位中は天長節だった日付が、
名君とされ近代日本の礎を築いた明治天皇の御聖徳を偲び
「國民の與論・總意として」制定された んだそうな。
戦後は国民の祝日「文化の日」となったが、
此れは昭和21年(1946年)の11月3日に日本国憲法が公布されたコトに
由来し、明治節とは関係なく定められたということになっている。
但し、当時の首相である吉田茂は、憲法制定のscheduleを、
当初は8月11日公布、2月11日(紀元節)施行とし、
その日程に間に合わなかったことから
11月3日(明治節)公布、5月3日施行にしており、
意図的に其れ迄の四大節に日程を合わせている。
あぁ、疲れた(>_<)
猶、誤字脱字・校正上の問題等が御座いましたら当記事コメント欄 迄・・・
いや、見逃して下さい (-_-;)
さーも調べてみよかな♪
なんかおもしろそう♡
もう少しわかりやすく漢字の横に読み仮名書いとくとかしてくれたらいいのにね~??
おバカなさーでも読めたら理解できるところがあるかも・・・・・・ないか!!(´∀`◎)>
kyoお兄ちゃんさすがですね!
やっぱりさーのやさしいkyoお兄ちゃんです♡
合格一番に喜んでくださったのはやっぱりやっぱりさーのkyoお兄ちゃん♡(´∀`◎)ノシ
予測どぉり☆
えへへ~♪
バレンタインは昨日だけど、きっと絶対持ってるでしょうがお金かけちゃいけないってゆわれているので無料のですみませんが・・・・・・・・・
チョコ送るです♡
でわwノシ
漢字と格闘して読んでるうちに・・
最初の方忘れた(爆)
アタマ悪くてごめんなちゃい(^_^;)
建国記念日って紀元節と慶長節とどちらだっけと迷った時に調べたのです。