結婚の意味がわからんのです
- カテゴリ:恋愛
- 2010/06/09 22:42:34
自分、ほぼ孤独死に決まっているので、「理想の結婚相手」なんてものもないのですが、思い浮かんだ雑談を四つ。
1
エヴァンゲリオンの登場人物に、アスカという女の子がいる。
この子はいつも強気な態度で、話す言葉は攻撃的だ。
けんか腰で人を突っぱねて、自分から孤独に向かってゆく。
アスカの母は、エヴァ開発実験中に精神が破綻して、廃人になってしまった。
父は、そんな母を捨てて、再婚した。
そんな中で、アスカは自分の能力だけを信じて、誰にも負けない成績をとることで、自分の存在価値をみつけるようになった。
アスカは、必死に生きようとするほど、他人を拒絶するようになってしまった。
そんな人物像だ。
さて、物語の人物として見ている分には、アスカの苦しみを理解できるし、かわいそうだとも思える。
この子を好きだと言ってもかまわないのだが、現実の人物だったらどうだろうか。
生い立ちについて、あるていど察しがついたとしても、それで上手につきあえる訳でもない。
会話も面倒だ。
好きだと感じられたとしても、つきあえないだろう。
好きだとか、良い人だとか、そういうことと、生活とは、少し違う問題なのだ。
2
テレビで「少林サッカー」を放送している。
ヒロインのムイは太極拳を使い、まんじゅう屋につとめる女の子だ。
さて、この女の子が問題である。
映画の中では、具体的には説明がないが、顔がひどい肌荒れになっている。
映画の紹介などによって「ニキビ」「吹き出物」といった表現が使われているが、画面上では、もっとひどい皮膚炎である。
ムイは、肌が汚いのを気にして、髪で顔を隠している。
僕は、現実の生活の中で、似たような経験をした。
十年ほど前だったか、スーパーのレジで、アトピー性皮膚炎らしい女性店員を見かけた。
ムイと同じように、髪で顔を隠していた。
それでも、スーパーのレジで働いている。
わざわざ、人前に出る仕事を選んだ理由は、なんだろうか。
その女の子を見るのは、レジで勘定するときだけなのだが、少なくとも、そのときの態度は、上品な女性だ。
どうしても、顔を見られることに気が病むのか、引っ込み思案な雰囲気が抜けないのだが、他の店員よりも態度が良い。
それに、肌が汚いだけで、顔立ちはきれいだった。
残念ながら、僕は映画の主人公のように告白できないダメ男なので、この子とつき合うことなどなかったが、けっこう好きだった。
3
昔の僕は、理想の女性は「秋篠宮妃殿下」だった。
むむ、世が世なら不刑罰である。
投獄である。
4
現在の理想の女性は、テレビ東京の大江麻理子さんだ。
まあ、自分が付き合うことなどない人である。
それはともかく、大江さんはまだ結婚していない。
以前の番組で、滑舌よく「恋人はいません」と発言している。
僕は、たぶん本当に恋人はいないのだろうと感じた。
どうも、今の日本では、大江さんのような節度ある女性は、結婚しにくいのではないか。
そう思う。
職場での礼儀正しさや、人と接するときの丁寧さは、裏返すと、遊びの付き合いがしにくいとも言えそうだ。
大江さんのような節度を持つ女性を好みな男は、やはり、自身もそれなりに節度があるだろう。(どの程度の礼儀を身につけているかはともかく、性格としてはそうだろう)
お互いに「職場で接する人だから」などと節度をもっていると、なかなか「二人で遊びに行こう」なんて話しにはならないのではないか。
こういうのは、男の方が積極的に誘った方が良いのだが、どうも、若い男が積極的に誘うと、浮ついた雰囲気になってしまうし、そんな男は、大江さんに好まれないだろう。
ある程度、年齢を重ねた男で、大江さんの節度を理解した上で、それを乗り越えて誘う能力を持たないと、大江さんを捕まえることは難しいように思える。
大人の男女でないと付き合えない恋愛もあるわけだ。
でも、今の日本ではなかなか大人になれない。
必然的に、立派な大人になるまで売れ残る人は少なくなる。
良い女ほど、まともな男を捕まえにくい時代ということだろうか。
男としては、良い女ほど「かっさらって」しまわないと手に入らない。
難しいところである。
女をひょいと担いで馬に乗っけて走り去る。
昔は本当に盗んでいったらしいのだが、少し昔は、結婚式として、新郎が馬に乗って女の家までやって来て、新婦を馬に乗せて走りさった。
現在のモンゴルで、そういう式はやるのかな?
そうですよb 「かっさらう」ぐらいの勢いというのは必要かと^^(何をエラソーに
役所へ婚姻届を出しておかないと社会的に不利だから、規則に従う訳だが、これは例えば、自動車が、公道では免許が必要であっても、私有地では自己責任であるのに似ている。
ところが、結婚と、自動車免許と違うのは、私有地と公道の区別は、物体として判然とするのだが、結婚は、当人たちの精神によるため、判然としないことだ。
恋愛と結婚の違いを自覚することは難しく、形として婚姻届を出すことで、精神という無形のものが、具体的形を得る。
このために、社会制度としての結婚と、精神としての結婚は、区別が困難になる。
まあ、へ理屈を言ってもしかたないけどね。
恋愛を「遊び」と感じる人と、結婚へ至る道程と感じる人がいて、今の日本は、面白いことに「遊び」と考えている人の方が結婚するようだ。
・・・色々、考えますわなぁ。
もしまたそういう人に出会えたら・・・・がんばれ!