Nicotto Town


蘭丸が行く


駒姫は言いました



これは戦国時代にいたとあるお姫さまのおはなし。

※これは残酷なお話です。苦手な人はご退去お願いいたします。




伊達政宗の叔父にあたる山形城主・最上義光には東国一の美貌と謳われる“駒姫”という娘がおりました。

1591年のことです。

豊臣秀吉から奥州征伐へ向かうよう命を受けた豊臣秀次は凱旋の帰路、山形城に立ち寄り休憩をしていました。

そこで、給仕をしている駒姫を見て、豊臣秀次は一目ぼれ。

「是非とも私の側室になってはくれないか!」

と、強く要望しますが父親である最上義光はすんなりと了承できません。

なにせ、駒姫は当時11歳でまだ幼い。時期関白となる豊臣秀次の側室にはまだまだ向いていないと思ったのです。

そこで、せめて成人するまでに修行をさせ、女性としての磨きをかけるので、それまでまっていて欲しいと懇願すると、秀次は承諾し、京へ帰っていきました。


あれからずっと秀次の側室としてふさわしい女性になるように、花嫁修業を行いました。

そして、4年の歳月が流れ、駒姫は15歳になると素晴らしい女性として成長したので、さっそく秀次が待ってくれている京へ向かいました。

しかし、秀次がいるはずの城には秀次はいない。

秀次は謀反の疑いをかけられ、秀吉の命により切腹させられていたのです。

それどころか、秀吉は秀次の関係者である、妻・側室・子を全員処刑せよと命令を下され、駒姫はあっという間に捕まってしまったのです。

秀次とあったのは1度きり。これはあまりにも酷い。これでは駒姫は殺される為修行をして、殺されるために京へやってきた事になってしまうではないか!!

義光は必死に助命を嘆願しました。周囲の者も同情して一緒になって嘆願しましたが、秀吉は許してくれません。

駒姫は処刑場に連れて行かれます。

そこで、やっと4年ぶりに秀次と再会できました。

腐敗が進む生首の状態で…

ここで詠んだ辞世の句


「つみをきるみだのつるぎにかかる身の
              なにかいつつのさはりあるべき」


意味:罪を斬るという弥陀の剣にかかって私は死にます。人間は生まれながらに5つの背負っているといいますが、弥陀の剣によってその罪から放たれて、私は浄土に行くのです。


享年15歳。罪無くして命を散ってしまった駒姫。

愛娘を殺された最上義光は豊臣に復讐心を燃やし、関ヶ原で徳川軍に味方し勝利したのであった…


 ~ 補足 ~

今回は悲しいお話です (ρ_;)
今日はそれだけ。

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2010/06/21 22:36
利家さまへ

秀吉殿がどんどん豹変していくのを間近で見ておられた利家さまも
さぞかし辛いお気持ちだったでございましょう…
こういう言い方は失礼に値しますが、
もし利家様が生まれたのがもう少し先であれば、
秀吉殿のこの暴虐行為をきっと止められましたでしょうに…
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2010/06/19 23:41
嗚呼、駒姫(ノД`)・・・・そんなお話があったなんて・・・
殺生関白の辻斬りの所業は濡れ衣なのかも知れませぬ

藤吉郎の奴は年をとるにつれ、猜疑心が強くなって冷酷、残酷になりおった
かつては人心掌握術に長け、知略も人望も日の本で並ぶ者がいないほどだったのに・・・・
長く子供ができなかったことが天下人の孤独を際立たせ、その人格までもを歪めてしまったのじゃろうか。。
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2010/06/09 22:43
メルティーさまへ

三国志のお話を聞くと、今回書いた秀次謀反の話とそっくりですね!
日本だけではなかったΣ(゚д゚;)
これはなんたる偶然!
メルティーさんのコメント内容は
昔やっていたTV番組“トリビアの泉”みたいに
“へぇ~!”ボタンを連打したい気分でございます!
それにしても歴史とは奥深いですねぇ…
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2010/06/09 10:20
またまたお邪魔します
秀次が事実謀反を企んでいたかどうか定かではありませんが、こうしたお話は世界中戦国の世には珍しい事でもありませんでした
σ(o・ω・o)が好きな「三国志」でも、劉備の養子であった劉封は義弟であった関羽の援軍要請を受け付けなかった(そのため関羽は呉に捕えられ処刑される)為に義父である劉備によって打ち首にされていますが、現在の研究では劉備は怒りはしたものの死罪までは考えていなかったようです
しかし、劉封の武人としての力・政治力を高く評価していた諸葛亮孔明は劉備の死後、劉禅が帝位につくときに必ずや障害となり、劉封派と劉禅派に国が二つに分かれて戦う事を予感し劉封の処刑を進言したのだそうです
やはり、優秀な養子より、愚かな実子なんですかね?
ご存じのとおり、劉禅は愚帝の代名詞とされており、蜀の国を滅ぼしてしまうのです

もしかしたら、秀次は謀反なんて考えてもいなかったのに、濡れ衣を着せられたのかもしれませんね
その事の発覚を恐れるあまり、関係者一同すべて殺してしまう

日本でも有名な「大化の改新」でも、勝ち組の中大兄皇子や藤原鎌足が自らの政権の正当性を証明するために蘇我氏をことごとく悪役に仕立て上げ、都合よく書き換えた。とする説が近年有力視されています
歴史とは勝者に都合のいいように作り変えられるものです
だからこそ歴史は面白い
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2010/06/05 23:55
美枝子さまへ

コメントありがとうございます。
駒姫が詠んだ辞世の句。
成人していても私は駒姫みたいな素晴らしい句はできません…
きっとすごい教育を受けていた成果なのでしょう…
15歳で殺されてしまった駒姫。残念です。無念でございます (゚ーÅ)


なつさまへ

豊臣秀吉…女好きでお調子者ってイメージがありますが(このイメージって私だけ?)
実際には残忍な性格があるみたいです。
しかも、好意を寄せていたのに裏切った女性には酷い仕打ちをしていたみたいですよ。
表の顔があれば、裏の顔もある。恐ろしいですね…


あぱんさまへ

確かにタイミングが悪かったとしか言いようがありません。ハィ。
今の時代ではありえないお話ですよね…
豊臣秀吉…側室・茶々が秀頼を生んでから変わってしまいました…
やはり、養子の秀次よりも実子の秀忠のほうが大事?
むごすぎます (゚ーÅ)
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2010/06/05 22:24
そんな話があったんですか
若い頃は才気に溢れていたのに
晩年の秀吉は保身になってしまったのが
とても残念ですよね
若くしてなんの罪もなくなくなった駒姫の
最後の句は見事ですね
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2010/06/05 22:18
駒姫さん…
確かに、タイミングが悪かっただけなんでしょうけど…あぁ。
たった一回しか会っていないのに(しかも幼い頃なのに)、処刑しちゃう秀吉が許せません…。
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2010/06/05 08:13
むぅ。恐るべし、豊臣秀吉・・・。特に、晩年は訳がわからん人というイメージがありますね。
駒姫さんは、タイミングが悪かった、ということなんでしょうか。京の事情なんか、伝わってなかった
んでしょうね。。。



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