■近代文藝之研究｜序に代へて人生觀上の自然主義を論ず　三（１）

　　　　　　三

此所まで回顧して來て、何時も思ひ悩むのは其の奧である。何が自分をして諦めさせるのだらう。私に取つてはそれが神の力でも信仰の力でも無くして、實に自分の知識の力である。若し自ら僭して聰明といふことを許されるなら、聰明なからである。假に現在普通の道徳を私が何等かの點で踏み破るとする。私には其の後の事が氣づかはれてならない。それが有形無形の自分の存在に非常の危險を持ち來たす。或は百年千年の後には、其の方が一層幸福な生存状態を形づくるかも知れないが、少なくともすぐ次の將來に於ける自己の生といふものが威嚇される。單身の場合はまだよいが、同じ自己でも、妻と擴がり子と擴がつた場合には、愈々それが心苦しくなる。つまり名といひ、利といひ、家といふ、無形、有形、單純、複雜の別はあつても、詮ずる所自己の生といふ中心意義を離れては、道徳も最後の一石に徹しない。直觀道學はそれを打ち消して利己以上の發足點を説かうけれども、自分等の知識は、何うも右の事實を否定するに忍びない。却つて否定するものゝ心事が疑はれてならない。（衆生濟度の方便なら構はないが）傍に千萬卷の經典を積んでも、自分の知識は「道徳の底に自己あり」といふ一言で之れを斥ける勇氣を持つてゐる。而して此の知識が私をして普通道徳の前に諦めをつけさせる、爲かたが無いと思はせる。それ以上、自分に取つては普通道徳は何等崇高の意義をも有しない。一種の方便經に過ぎない。



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＊註１：此所・詮ずる所
「所」の旧字体。
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「詮」の旧字体。
http://www5e.biglobe.ne.jp/%7Ehanadada/tougetsu/moji/sen.jpg

＊註２：回顧
「顧」の旧字体。
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※注３：悩む
「悩」の旧字体。
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＊註４：自分
「分」の旧字体。
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＊註５：諦めさせる・諦め
「諦」の正字体。
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＊註６：神の力
「神」の旧字体。「示」＋「申」。

＊註７：知識
「識」の正字体。

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＊註８：普通
「通」の旧字体。「シンニョウ」は「二点シンニョウ」。

＊註９：道徳・道學
「道」の旧字体。「シンニョウ」は「二点シンニョウ」。
「徳」の旧字体。「心」の上に「一」が入る。
http://www5e.biglobe.ne.jp/%7Ehanadada/tougetsu/moji/toku.jpg

＊註10：一層
「層」の旧字体。「曽」が「曾」。

＊註11：幸福
「福」の旧字体。「ネ」が「示」。

＊註12：状態
「状」の旧字体。
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＊註13：次の
「次」の正字体。
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＊註14：愈々
「愈」の正字体。
http://www5e.biglobe.ne.jp/%7Ehanadada/tougetsu/moji/iyoiyo.jpg

＊註15：消して
「消」の旧字体。「ナオガシラ」が「小」。

＊註16：説かう
「説」の旧字体。「言」＋「兌」。

＊註17：忍びない
「忍」の正字体。
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＊註18：方便
「便」の旧字体。
http://www5e.biglobe.ne.jp/%7Ehanadada/tougetsu/moji/ben_tayori.jpg

(＊コメント欄へつづく)