Nicotto Town



心の杖として鏡として


『心の杖とした鏡として』 ″癒し″としての自己表現

ドキュメンタリーです。
精神病院での芸術活動・37年の軌跡
http://www.geocities.jp/hahennokirameki/index.html

今日が最終日なので、お決まりの第七藝術劇場に行って観てきました。

実は中学生の頃、美術の成績は満点で、美術の先生から「美術系を専門としている高校に進学してはどうか」と言われたことがありました。

デッサンが優れているのではなく、色彩感覚が良かったようです。
当時、というか、何度もしつこいのですが、高校すら危うい家庭環境ゆえ
私立の高校なんて、まず不可能。侘しい気持ちで先生の言葉を聴いておりました。

まぁ、そんなのは言い訳。本当にしたければ、絶対にできたはずなんです。
それにね、左向きの顔のデッサンは良くても、右向きがダメという初歩的な能力
欠如に気付いた訳です^^;;
で、もっぱら鑑賞者に転じたんですね。

「アウトサイダー・アート」は知っていたんです。

芸術的な訓練を受けず、自らの意思で表現したアートの総称なんです。
刑務所などで、初めて創作に取り組んだりと、様々なようですが
一番はアートセラピーからが多いようです。
結果的に、精神障害を抱える人のアートとして、
根付いてしまった感はあるみたいですね。
「裸の大将」で有名な山下清画伯は有名。

小説は人に分かるように書かなければいけない部分があります。
絵画は見えない物を見ようとする部分があり、より精神を壊しやすい、と
どこかで読んだような気がします。

ゴッホや、エゴン・シーレ、あのルノワールも晩年は裸のモデル達を
鞭で追い回していたとか。逸話には事欠きません。

芸術で食べていくなんて、まぁ至難の業でしょう。
楽器や歌、文筆。絵画、彫刻、すべて世に認められてナンボです。
大半は僅かな人々の中で流布し、消えていきます。

前にお喋りな画家に遭遇したことがありました。
もちろん緻密な絵画。自分で営業もできる話術の持ち主。
黙っていたら絵なんか売れないよ。と名刺を貰いましたが^^;
パトロンは夫人。実家がお金持ちなんだそうです。
普通だと、絶対に身を立てるなんぞ、無理だとおっしゃる。

創作する苦しさの上にのしかかる、生活苦。ピカソみたいに生前から売れた
画家なんて一握りかもしれません。

精神病院に併設された芸術活動の教室。
自由に何でも表現してよいのです。
心の病と闘いながら描く。
それは自らの心の内を覗く行為、自分と向き合うことだと気付きます。
おどろおどろしい絵も、惹きつける力があります。

「生きる」って何だろう。疑問が湧きます。
わたしは「冒険」することだとろう、と、最近は思っています。
ドキドキすることです。
とても疲れるし、恐い。自己嫌悪もあるだろう。失敗もある。
それでも、新しい何かを見ることはできる。
いつもと違う自分かもしれない。
自分とは謎で、謎である限り可能性も溢れている。
たとえ幻想でも、アハハ。。と笑いたくなります。

この教室に通う人達は、病に捕らわれている自分の心の中に旅をしていきます。
そこに同じ創作をする仲間がいます。
創作者として、みんな平等で、お互いに模索し刺激を受けます。
迷いがある。苦しみもある。
それでも真摯だ。悩むことに。
それが絵となって現れてくる。
そこに隠されていた、閉じ込めていた心がある。
描くことで解放されていくようです。

ユトリロが一番苦しんだ時代、真っ白な素晴らしいモンマルトルの景色を描きました。晩年、生活が安定してくると、魅力も薄れてきます。
これは、芸術全般にいえることかもしれません。
苦しみの際にいる時こそ、作品は個性的に輝く。
皮肉なことです。
 
芸術活動は治療には直接的に結びつきません。
生きる支え、杖にはなるんですね。
病が治るのではなく、生きたいと思う希望、いえ興味かもしれない。
それが「癒し」なのかもしれません。



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2010/04/29 16:13
らてぃあさん★コメントありがとうございます。

芸術は爆発だぁ。と言ったのは岡本太郎さんでした。
生きている証の表現の一つかもしれませんね。

そうなんですね。
その人の精神が一番苦しい時に、反比例して作品が素晴らしくなる。
皮肉なことです。人は満たされると進歩しないのでしょうね。
そう考えると複雑ですなぁ。。
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2010/04/29 16:10
yukinkoさん

わたしは、どちらかというと写真が欲しかったんですね。
賞状よりも絵の原本、そのものが。
そんなすれ違いが埋められないところに
親と子というものの複雑さが潜んでいるような気がします。
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2010/04/29 15:47
刹那さん★コメントありがとうございます。

プロで依頼者のニーズに合わせて製作する場合を除いて
絵画というもの、芸術全般にいえますが
描く、表現する人の一端が現れてくる分野ですね。

特に絵画は言葉にできない部分、深層心理が出てきやすいと
言われています。

だからこそ、観る側、受け手は何かを感じてしまうのでしょうね。

絵を描くことにより、自分を表に出すという作業過程があるのかもしれません。
それによって、楽になるのであれば、いろんなことを試してみても
いいのかもしれませんね。
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2010/04/29 15:41
KINACOさん

きっと、同時進行系のものが多いのでしょう^^
これは現在。
わたしなんて、もう、絶対に欠落するのでカレンダーにメモを貼り付けていないと
全然ダメです^^;

過去のことならば、たぶん、思い出すという強い決意でなければ
現れてこない記憶もあるんです。


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2010/04/26 21:46
生きることと芸術って不思議に密接な関係がありますよね。
監獄、病院、戦時下、芸術家が逆境にあって生命力が燃え上がるように芸術も輝く。
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2010/04/26 09:48
賞状をお父様が保管されていたことに・・・・言葉にならない感情を感じました。
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2010/04/26 03:53
絵ですか。
絵と精神とは、結びつくものだと感じます。

自分の感情が絵となって具現化したり、
それが他の人に見せる気持ちの表現だったり、

今でもよく絵を描いています。
どれも、悲しい絵ばかりが目立ちますが。

実は、私も絵が好きです。
美術も好きでした。

先生からは、感受性を褒められた覚えがあります。
そして、関係ありませんが美術の先生とはいつも仲が良かったです。

自分の絵を評価されたり、褒められると、
自分の事を理解されたように、あの頃は思えました。

絵は、感情そのもの。
その人自身だと思います。
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2010/04/25 10:28
なんでこう、何一つ正確に覚えてないんだろう。。。
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2010/04/24 23:48
yukinkoさん★コメントありがとうございます。

今は全く描きません^^;
若い頃はいろいろとあがいていたのですが、続きませんでした。
何事も情熱が必要ですね。

わりといろんなところで、特選にはならない物の入賞はしてたんですよ^^
でも、その賞状も家を出た時に置いてきました。
父が亡くなった時、遺品を整理していたら、わたし達の写真はなかったのに
その賞状が何枚か出てきました。

yukinkoさん、せっかくだから絵を続けてみてはいかがですが。
あたるくんと一緒に^^
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2010/04/24 21:52
手毬さんは絵はお描きになるのですか?私は、水彩画を時々やってましたが(習った事はありません)、ここ数年は書いてないです。集中力がいります。油絵もやってみたいのですが、アトリエがないしなぁ・・・・。
幼少の頃、先生がクラスから応募する都道府県のコンクールで絵の入賞した事があるんですよ、私^^
中学の時、写生会で寺に行って、みんな寺を描くのに、私は寺の柱を中心に、柱の色に苦戦していたら。美術の先生に「構図が変わってるなぁ」と言われました(笑)先生は寺描けよって思ったのかしら?
ちなみに、絵を描く時は、左なんです、私。

大雨の中、ドキュメンタリーだったのですね。
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2010/04/24 14:10
ルルさん★コメントありがとうございます。

わたしの父もそういう感じはあったのよ。
大きなトラウマが幾つもあるから、確かに仕方がなかった部分があったんだろうと
今になれば思うのね。当時は父自身も否定していたしね。
でも小さかったから、あまり理解できませんでした。
ストレスのキャパって、肉親でも大きく違う気がするね。

確かに本人も辛いだろけど、
周囲もかなり堪えますよね。。
まぁ、キツイ言い方をすれば、自分の事だけで悩んでいればいいんだから
という気持ちになってしまう事もあります。
リアルな生活を支えていくには、やはり大変だものね。。。

そう言う意味では、第三者に委ねるのが、双方にとって
とても効果的な治療法でしょうね。

自分の好きなことを見つけ、没頭できれば
気分転換にもなるしね。

芸術はさ、深く考えるようで、実は考えてない野性の叫び^^;
みたいなものかもしれませんなぁ。。(ウソ。分からないから。。><

いろんなものをたくさん抱えて、それでも明るいルルちゃん
なかなかできる事ではないと、思って、応援してるよん♥
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2010/04/24 13:56
大雨の中、わざわざ観に行ったのはコレね~~(*´ェ`*)

確かにね~生きる支えは必要だと思う。。
精神的病については、手毬ちゃんには少し話してあるけど、
身内が20歳代の頃からずっと付き合っている病なので
他人事とは思えないからこそ直視できないのが本音^^;

医師から、精神の病は完治が難しく、10年単位はざらで
生涯付き合っていく人も多いと聞いた時、
うちは違うなんて思ったけど早ウン十年^^;

話がそれたけど、全てのことにおいて何か夢中になって
病や辛い事を忘れる時間を持つことは大切だと思う。

私は忘れるほど辛いことはないけど、ニコでお友達と話すことも癒しの一つ^^;
芸術とはエライ違いですなぁ~(;´Д`A あせあせ

手毬ちゃんは感性の豊かさをニコを通じても感じます。 長くなってごめん^^;
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2010/04/24 00:24
honeyさん★コメントありがとうございます。

好きな事をして食べていければ、なんと幸せな事でしょう。
まぁ、だいたいがね^^;そんな幸運には恵まれないものなんですね。
いつか叶えたい夢を胸に、生きていくのでありますが^^;
まぁ、夢を捨てては、もう二度と拾えないので、
とりあえず確保しながら行きましょう^^;儚い抵抗をしておりますが。。

お父さま、美的センスがおありだったんですね。
でも、やっぱり食べていくのはいつの時代も大変です。

honeyちゃんもですか^^
美術が好きだったんだですね。何となくわかる^^
空ですか。
身近にありながら、常に同じでないものですね。
毎日、気にしているつもりでも、案外、見ていなかったり。。
写真見たいかも^^
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2010/04/24 00:18
ハレルヤさん★コメントありがとうございます。

ああ。。なんとなく想像できそうな予感^^;
奇に憧れるなんてところが。
頑張ったって、奇の才能は発展しなさそうです。

新しい物が一番だけれど、それだと世間の認知は遅れて
二番手を追うと、これまた安く買いたたかれ
芸術で食べていけるようになるには、パトロンなしには至難ですね。

精神的苦境と貧困に耐え続ける体力さえあれば
他の事だって十分できるはず。
より実利的な方向に流れてしまいますねぇ。

芸術を語り出すと、迷路ですワ。。
シーレ。クリムトも好きです。
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2010/04/23 22:25
実はわたしも義務教育から高校まで、
常にではありませんがわりと美術の成績はよかったのです。
評価されたのは色遣いと造形。
その2つが欠落している、
たとえばデッサンとかエッチング版画のときなどは、
栖関が成績ががた落ちします。
面白かったのは、小学校のとき、
クラスメートたちに酷評された作品が、
美術(何か違う名前だったような)の先生からとても褒められたことです。

わたしの父親という人はお坊ちゃんで、
美大を二つも渡り歩いたりしていましたが、
普通の会社に就職しました。
単純に食べていけないから。
最初は油彩を専攻していたのですが、
次の美大ではデザインを専攻して、
でもデザインを専門として食べていくのも難しいので、
会社組織の中で、
デザインについて何か判断をできる立場として、
生きていく道を見出したようです。

わたしは画に描いたような凡人ですが、
空の写真をときどき撮っていて、
友人レベルでは、空の色が好きだ、
といってもらえたりします(^_^;
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2010/04/23 21:40
わたくしは美大なぞにいった人間ではありますが
美大にいってみつけたことは
アートとかデザインは自分に徹底的に向いてないってことでした。

奇に憧れる凡の卵たち。
(中には朝の4時から石切り場にこもって掘り続ける奇人もいたけど)
まさに分散していきておる。
アートの現場を目指しながら就職活動をする。
3年違和感に悩まされ、私は大学を辞したのでした

狂いながらこの世俗に存在して生きていられるならそれは奇跡
心の杖は存在するけどそれではメシが食えない。

だんだん何がいいたいのかわからなくなってきた☆
エゴンシーレはだいすきです。
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2010/04/23 21:34
西の魔女さん★コメントありがとうございます。

表現は晒し、その通りですね。
晒して、晒して、それでも生まれてくる何かを求め続ける。
世に出れば、成果を問われ、分析され、消耗されていきます。
たぶん、この教室内でならば、守られる部分がある。
そこが『癒し』となるんでしょうね。

それでも、このドキュメンタリーを受け入れたのは
やはり、表現者として、ここにあることを、どこかで示したい現れかもしれません。
社会との繋がりを確認すること。
人間はやはり社会的動物なんですものね。

アートが先にあって、壊れてしまった人と
壊れてしまってからアートと出会った人がいて
みんな、同じ視線で制作に模索し、刺激を受け合う。
時間の止まった美術教室のようでもあります。

秀才ならば、世の中は渡り易いけれど
天才は孤独ですね。

思えば、芸術はムダです。現代アートに至っては、果てしないムダのように見える作品が
たくさんあります。それなのに、わたしたちはムダに惹かれ続ける。
そこに生きる何かを見てしまう。
「表現」というところで、制作者は孤独を見、人は作品を見て、孤独を忘れる。
いわば、出会いがあるのでしょうね。
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2010/04/23 21:19
catさん★コメントありがとうございます。

実はこれ以前に『精神』という、個人の心療内科病院のドキュメンタリーを観ているんです。
その延長で、アート・セラピー、癒しとしての自己表現、という部分に惹かれたんですね。

喋る、書く行為はある程度、秩序だって計算しなければ困難です。
が、確かに『絵画』および切り絵や、貼り絵などは、ダイレクトに可能ですね。
それゆえに心の内側が見えやすいとも言えます。
計算された何かよりも、それこそが真の『芸術』かもしれませんね。

わたしの絵は^^;;最近は皆無です。
昔は旅絵日記何ぞをつけておりましたが^^;;
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2010/04/23 21:11
アッシュさん★コメントありがとうございます。

やはり、常に新しい物を求めているからでしょうね。
オリジナルでありたいという闘いは、厳しいものがでしょう。
その過程で精神を病んでいく。
厳しい世界です。

そうなんですね。心を捕らえて離さない力があります。
たぶん、生へのエネルギーすべてが、作品などに注ぎ込まれているからでしょうね。
わたし達は分散して生きてますもんね。
刹那的な力を感じてしまのかもしれませんね。
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2010/04/23 21:06
KINACOさん★コメントありがとうございます。

ああ^^ジミーですワ。ジミー大西。最近はメディアに登場しなくなりましたが
彼の絵、好きです。やはり色彩感覚が。ラテンですね。
苛められっ子で自らを「アホ」と言っていた彼が、石坂浩二さんに「絵の才能がある」と褒められ目覚めます。
何よりも絵を描いている時、生き生きと楽しそうです。彼の場合は。
居場所を見つけたんですね。幸運な例です。

「アホ」を売り物にすると、醜いですよね。あざとさが見えるから。
天然は可愛いけれど、どっか哀しい。哀しいから可愛いんでしょうね。

自我との格闘。自分が何者であるか、それを突き詰めていく在り方で
人は狂気を見るのかもしれませんね。ものすごく、まじめなんだろうと。。。

強いて言えば、みんなどっかオカシイ部分を持っていると、わたしは思います。
何かを突き詰めなければ気がすまない。そこで軋轢があって、どうでもいいやと妥協できるか否か、
世界とか、社会とか、人間なんていい加減なものです。
それをどの程度受け入れれるかの差でしょうか。

違う言葉を使うなら純粋か。。
ただ、医学的には治療が必要かどうかが、ボーダーラインだそうです。

ニコにも心を痛めている人がいて
「最初からそうなのと、途中からなってしまった人では、やっぱり違う気がする」
と書いていました。それがね、ずっと心に残っていて、考えるんです。

たぶん、安定と同調を手放したくないんだろうと凡人は。
そこを突き詰めてくるから、何やら、ざわついてくるんでしょうね。
人の心の在り方の不思議は、ある意味、痛みや哀しさほど美しく、魅了されてしまうんですが
それでも、人は喜びで結びつかなければ、健全とは言えない、そう思うんです。

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2010/04/23 17:13
表現者っていうのは、自分の心を人目に晒すことになります。
言葉で書くと、カバーしやすいのですが
絵画は剥き出しになってしまいますからね。

心の形を、目で見ることで
心を支えることもあれば、壊してしまうこともある。

種の保存や、生きるための糧とならないものを
寝食忘れても作り出してしまう。
それが、最も人間らしい行為なのかもしれませんが
KINACOちゃまが言うように、偉才というものは
何かと引き換えでないと、生まれてこないのかもしれないですね。
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2010/04/23 10:47
芸術のお言葉から縁遠い私が申しますのと 軽々しく聞こえ如何なものかと存じますが
『絵』は、お描きになられます心・意思そのもののように思います。
嘘・偽りのない・・・

価値を目論んで、また描く事意外の別の何かを想い描きますと
作品のお色が 薄くなってしまうように感じてしまいます(;;)


黒猫手毬さんのお描きになられました作品、凄く見てみたいです^^
アバター
2010/04/23 10:38
芸術家はけっこうメンタルで厳しいヒト多いですもんね。
そこらへんと創作能力ってのは、なんか関係ありそうですねーw
わかりませんけど。
だけど、アウトサイダーアートってのは、独特の迫力を感じます。
以前、新聞でダンスのを目にしたことがありますが、文字と写真だけでも物凄い訴求力がありましたからねえ。
アバター
2010/04/23 04:28
ねむの木学園の絵を、むかしミスドが飾ってましたよね。
吉本のジョー大西でしたっけ、あの人の色使いをみたとき、その事を思い出しました。
あの色使いは、普通の「脳内作業」が出来売る人には無理です。
何かが欠けて、何か特殊能力を得ているのかもしれません。

ビートたけしの絵は、奇才を衒った凡人です。

渡辺淳一や、あのあ〜。。名前忘れました。。。ベストセラー作家なんだけどなぁ。。
あんなんも、常識の中にある人のごくごく普通の才能、テクニックだと感じます。

なにが言いたかったのか良くわからなくなって来ましたが、
「ブラボー頭のおかしな人」で、そのおかしさを手に入れようと装うと、
じつにみっともないけれど、大衆は騙され易いって事でしょうか。。。

一般的に知的に障害があるとされる人達、ねぇ、どうなんでしょうね。
障害なのかなぁ。。。何かを手放して何かを得てるのかもしれないです。
その何かをこちらがわかってないだけかもしれないです。




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