心の杖として鏡として
- カテゴリ:映画
- 2010/04/23 02:48:19
『心の杖とした鏡として』 ″癒し″としての自己表現
ドキュメンタリーです。
精神病院での芸術活動・37年の軌跡
http://www.geocities.jp/hahennokirameki/index.html
今日が最終日なので、お決まりの第七藝術劇場に行って観てきました。
実は中学生の頃、美術の成績は満点で、美術の先生から「美術系を専門としている高校に進学してはどうか」と言われたことがありました。
デッサンが優れているのではなく、色彩感覚が良かったようです。
当時、というか、何度もしつこいのですが、高校すら危うい家庭環境ゆえ
私立の高校なんて、まず不可能。侘しい気持ちで先生の言葉を聴いておりました。
まぁ、そんなのは言い訳。本当にしたければ、絶対にできたはずなんです。
それにね、左向きの顔のデッサンは良くても、右向きがダメという初歩的な能力
欠如に気付いた訳です^^;;
で、もっぱら鑑賞者に転じたんですね。
「アウトサイダー・アート」は知っていたんです。
芸術的な訓練を受けず、自らの意思で表現したアートの総称なんです。
刑務所などで、初めて創作に取り組んだりと、様々なようですが
一番はアートセラピーからが多いようです。
結果的に、精神障害を抱える人のアートとして、
根付いてしまった感はあるみたいですね。
「裸の大将」で有名な山下清画伯は有名。
小説は人に分かるように書かなければいけない部分があります。
絵画は見えない物を見ようとする部分があり、より精神を壊しやすい、と
どこかで読んだような気がします。
ゴッホや、エゴン・シーレ、あのルノワールも晩年は裸のモデル達を
鞭で追い回していたとか。逸話には事欠きません。
芸術で食べていくなんて、まぁ至難の業でしょう。
楽器や歌、文筆。絵画、彫刻、すべて世に認められてナンボです。
大半は僅かな人々の中で流布し、消えていきます。
前にお喋りな画家に遭遇したことがありました。
もちろん緻密な絵画。自分で営業もできる話術の持ち主。
黙っていたら絵なんか売れないよ。と名刺を貰いましたが^^;
パトロンは夫人。実家がお金持ちなんだそうです。
普通だと、絶対に身を立てるなんぞ、無理だとおっしゃる。
創作する苦しさの上にのしかかる、生活苦。ピカソみたいに生前から売れた
画家なんて一握りかもしれません。
精神病院に併設された芸術活動の教室。
自由に何でも表現してよいのです。
心の病と闘いながら描く。
それは自らの心の内を覗く行為、自分と向き合うことだと気付きます。
おどろおどろしい絵も、惹きつける力があります。
「生きる」って何だろう。疑問が湧きます。
わたしは「冒険」することだとろう、と、最近は思っています。
ドキドキすることです。
とても疲れるし、恐い。自己嫌悪もあるだろう。失敗もある。
それでも、新しい何かを見ることはできる。
いつもと違う自分かもしれない。
自分とは謎で、謎である限り可能性も溢れている。
たとえ幻想でも、アハハ。。と笑いたくなります。
この教室に通う人達は、病に捕らわれている自分の心の中に旅をしていきます。
そこに同じ創作をする仲間がいます。
創作者として、みんな平等で、お互いに模索し刺激を受けます。
迷いがある。苦しみもある。
それでも真摯だ。悩むことに。
それが絵となって現れてくる。
そこに隠されていた、閉じ込めていた心がある。
描くことで解放されていくようです。
ユトリロが一番苦しんだ時代、真っ白な素晴らしいモンマルトルの景色を描きました。晩年、生活が安定してくると、魅力も薄れてきます。
これは、芸術全般にいえることかもしれません。
苦しみの際にいる時こそ、作品は個性的に輝く。
皮肉なことです。
芸術活動は治療には直接的に結びつきません。
生きる支え、杖にはなるんですね。
病が治るのではなく、生きたいと思う希望、いえ興味かもしれない。
それが「癒し」なのかもしれません。
芸術は爆発だぁ。と言ったのは岡本太郎さんでした。
生きている証の表現の一つかもしれませんね。
そうなんですね。
その人の精神が一番苦しい時に、反比例して作品が素晴らしくなる。
皮肉なことです。人は満たされると進歩しないのでしょうね。
そう考えると複雑ですなぁ。。
わたしは、どちらかというと写真が欲しかったんですね。
賞状よりも絵の原本、そのものが。
そんなすれ違いが埋められないところに
親と子というものの複雑さが潜んでいるような気がします。
プロで依頼者のニーズに合わせて製作する場合を除いて
絵画というもの、芸術全般にいえますが
描く、表現する人の一端が現れてくる分野ですね。
特に絵画は言葉にできない部分、深層心理が出てきやすいと
言われています。
だからこそ、観る側、受け手は何かを感じてしまうのでしょうね。
絵を描くことにより、自分を表に出すという作業過程があるのかもしれません。
それによって、楽になるのであれば、いろんなことを試してみても
いいのかもしれませんね。
きっと、同時進行系のものが多いのでしょう^^
これは現在。
わたしなんて、もう、絶対に欠落するのでカレンダーにメモを貼り付けていないと
全然ダメです^^;
過去のことならば、たぶん、思い出すという強い決意でなければ
現れてこない記憶もあるんです。
監獄、病院、戦時下、芸術家が逆境にあって生命力が燃え上がるように芸術も輝く。
絵と精神とは、結びつくものだと感じます。
自分の感情が絵となって具現化したり、
それが他の人に見せる気持ちの表現だったり、
今でもよく絵を描いています。
どれも、悲しい絵ばかりが目立ちますが。
実は、私も絵が好きです。
美術も好きでした。
先生からは、感受性を褒められた覚えがあります。
そして、関係ありませんが美術の先生とはいつも仲が良かったです。
自分の絵を評価されたり、褒められると、
自分の事を理解されたように、あの頃は思えました。
絵は、感情そのもの。
その人自身だと思います。
今は全く描きません^^;
若い頃はいろいろとあがいていたのですが、続きませんでした。
何事も情熱が必要ですね。
わりといろんなところで、特選にはならない物の入賞はしてたんですよ^^
でも、その賞状も家を出た時に置いてきました。
父が亡くなった時、遺品を整理していたら、わたし達の写真はなかったのに
その賞状が何枚か出てきました。
yukinkoさん、せっかくだから絵を続けてみてはいかがですが。
あたるくんと一緒に^^
幼少の頃、先生がクラスから応募する都道府県のコンクールで絵の入賞した事があるんですよ、私^^
中学の時、写生会で寺に行って、みんな寺を描くのに、私は寺の柱を中心に、柱の色に苦戦していたら。美術の先生に「構図が変わってるなぁ」と言われました(笑)先生は寺描けよって思ったのかしら?
ちなみに、絵を描く時は、左なんです、私。
大雨の中、ドキュメンタリーだったのですね。
わたしの父もそういう感じはあったのよ。
大きなトラウマが幾つもあるから、確かに仕方がなかった部分があったんだろうと
今になれば思うのね。当時は父自身も否定していたしね。
でも小さかったから、あまり理解できませんでした。
ストレスのキャパって、肉親でも大きく違う気がするね。
確かに本人も辛いだろけど、
周囲もかなり堪えますよね。。
まぁ、キツイ言い方をすれば、自分の事だけで悩んでいればいいんだから
という気持ちになってしまう事もあります。
リアルな生活を支えていくには、やはり大変だものね。。。
そう言う意味では、第三者に委ねるのが、双方にとって
とても効果的な治療法でしょうね。
自分の好きなことを見つけ、没頭できれば
気分転換にもなるしね。
芸術はさ、深く考えるようで、実は考えてない野性の叫び^^;
みたいなものかもしれませんなぁ。。(ウソ。分からないから。。><
いろんなものをたくさん抱えて、それでも明るいルルちゃん
なかなかできる事ではないと、思って、応援してるよん♥
確かにね~生きる支えは必要だと思う。。
精神的病については、手毬ちゃんには少し話してあるけど、
身内が20歳代の頃からずっと付き合っている病なので
他人事とは思えないからこそ直視できないのが本音^^;
医師から、精神の病は完治が難しく、10年単位はざらで
生涯付き合っていく人も多いと聞いた時、
うちは違うなんて思ったけど早ウン十年^^;
話がそれたけど、全てのことにおいて何か夢中になって
病や辛い事を忘れる時間を持つことは大切だと思う。
私は忘れるほど辛いことはないけど、ニコでお友達と話すことも癒しの一つ^^;
芸術とはエライ違いですなぁ~(;´Д`A あせあせ
手毬ちゃんは感性の豊かさをニコを通じても感じます。 長くなってごめん^^;
好きな事をして食べていければ、なんと幸せな事でしょう。
まぁ、だいたいがね^^;そんな幸運には恵まれないものなんですね。
いつか叶えたい夢を胸に、生きていくのでありますが^^;
まぁ、夢を捨てては、もう二度と拾えないので、
とりあえず確保しながら行きましょう^^;儚い抵抗をしておりますが。。
お父さま、美的センスがおありだったんですね。
でも、やっぱり食べていくのはいつの時代も大変です。
honeyちゃんもですか^^
美術が好きだったんだですね。何となくわかる^^
空ですか。
身近にありながら、常に同じでないものですね。
毎日、気にしているつもりでも、案外、見ていなかったり。。
写真見たいかも^^
ああ。。なんとなく想像できそうな予感^^;
奇に憧れるなんてところが。
頑張ったって、奇の才能は発展しなさそうです。
新しい物が一番だけれど、それだと世間の認知は遅れて
二番手を追うと、これまた安く買いたたかれ
芸術で食べていけるようになるには、パトロンなしには至難ですね。
精神的苦境と貧困に耐え続ける体力さえあれば
他の事だって十分できるはず。
より実利的な方向に流れてしまいますねぇ。
芸術を語り出すと、迷路ですワ。。
シーレ。クリムトも好きです。
常にではありませんがわりと美術の成績はよかったのです。
評価されたのは色遣いと造形。
その2つが欠落している、
たとえばデッサンとかエッチング版画のときなどは、
栖関が成績ががた落ちします。
面白かったのは、小学校のとき、
クラスメートたちに酷評された作品が、
美術(何か違う名前だったような)の先生からとても褒められたことです。
わたしの父親という人はお坊ちゃんで、
美大を二つも渡り歩いたりしていましたが、
普通の会社に就職しました。
単純に食べていけないから。
最初は油彩を専攻していたのですが、
次の美大ではデザインを専攻して、
でもデザインを専門として食べていくのも難しいので、
会社組織の中で、
デザインについて何か判断をできる立場として、
生きていく道を見出したようです。
わたしは画に描いたような凡人ですが、
空の写真をときどき撮っていて、
友人レベルでは、空の色が好きだ、
といってもらえたりします(^_^;
美大にいってみつけたことは
アートとかデザインは自分に徹底的に向いてないってことでした。
奇に憧れる凡の卵たち。
(中には朝の4時から石切り場にこもって掘り続ける奇人もいたけど)
まさに分散していきておる。
アートの現場を目指しながら就職活動をする。
3年違和感に悩まされ、私は大学を辞したのでした
狂いながらこの世俗に存在して生きていられるならそれは奇跡
心の杖は存在するけどそれではメシが食えない。
だんだん何がいいたいのかわからなくなってきた☆
エゴンシーレはだいすきです。
表現は晒し、その通りですね。
晒して、晒して、それでも生まれてくる何かを求め続ける。
世に出れば、成果を問われ、分析され、消耗されていきます。
たぶん、この教室内でならば、守られる部分がある。
そこが『癒し』となるんでしょうね。
それでも、このドキュメンタリーを受け入れたのは
やはり、表現者として、ここにあることを、どこかで示したい現れかもしれません。
社会との繋がりを確認すること。
人間はやはり社会的動物なんですものね。
アートが先にあって、壊れてしまった人と
壊れてしまってからアートと出会った人がいて
みんな、同じ視線で制作に模索し、刺激を受け合う。
時間の止まった美術教室のようでもあります。
秀才ならば、世の中は渡り易いけれど
天才は孤独ですね。
思えば、芸術はムダです。現代アートに至っては、果てしないムダのように見える作品が
たくさんあります。それなのに、わたしたちはムダに惹かれ続ける。
そこに生きる何かを見てしまう。
「表現」というところで、制作者は孤独を見、人は作品を見て、孤独を忘れる。
いわば、出会いがあるのでしょうね。
実はこれ以前に『精神』という、個人の心療内科病院のドキュメンタリーを観ているんです。
その延長で、アート・セラピー、癒しとしての自己表現、という部分に惹かれたんですね。
喋る、書く行為はある程度、秩序だって計算しなければ困難です。
が、確かに『絵画』および切り絵や、貼り絵などは、ダイレクトに可能ですね。
それゆえに心の内側が見えやすいとも言えます。
計算された何かよりも、それこそが真の『芸術』かもしれませんね。
わたしの絵は^^;;最近は皆無です。
昔は旅絵日記何ぞをつけておりましたが^^;;
やはり、常に新しい物を求めているからでしょうね。
オリジナルでありたいという闘いは、厳しいものがでしょう。
その過程で精神を病んでいく。
厳しい世界です。
そうなんですね。心を捕らえて離さない力があります。
たぶん、生へのエネルギーすべてが、作品などに注ぎ込まれているからでしょうね。
わたし達は分散して生きてますもんね。
刹那的な力を感じてしまのかもしれませんね。
ああ^^ジミーですワ。ジミー大西。最近はメディアに登場しなくなりましたが
彼の絵、好きです。やはり色彩感覚が。ラテンですね。
苛められっ子で自らを「アホ」と言っていた彼が、石坂浩二さんに「絵の才能がある」と褒められ目覚めます。
何よりも絵を描いている時、生き生きと楽しそうです。彼の場合は。
居場所を見つけたんですね。幸運な例です。
「アホ」を売り物にすると、醜いですよね。あざとさが見えるから。
天然は可愛いけれど、どっか哀しい。哀しいから可愛いんでしょうね。
自我との格闘。自分が何者であるか、それを突き詰めていく在り方で
人は狂気を見るのかもしれませんね。ものすごく、まじめなんだろうと。。。
強いて言えば、みんなどっかオカシイ部分を持っていると、わたしは思います。
何かを突き詰めなければ気がすまない。そこで軋轢があって、どうでもいいやと妥協できるか否か、
世界とか、社会とか、人間なんていい加減なものです。
それをどの程度受け入れれるかの差でしょうか。
違う言葉を使うなら純粋か。。
ただ、医学的には治療が必要かどうかが、ボーダーラインだそうです。
ニコにも心を痛めている人がいて
「最初からそうなのと、途中からなってしまった人では、やっぱり違う気がする」
と書いていました。それがね、ずっと心に残っていて、考えるんです。
たぶん、安定と同調を手放したくないんだろうと凡人は。
そこを突き詰めてくるから、何やら、ざわついてくるんでしょうね。
人の心の在り方の不思議は、ある意味、痛みや哀しさほど美しく、魅了されてしまうんですが
それでも、人は喜びで結びつかなければ、健全とは言えない、そう思うんです。
言葉で書くと、カバーしやすいのですが
絵画は剥き出しになってしまいますからね。
心の形を、目で見ることで
心を支えることもあれば、壊してしまうこともある。
種の保存や、生きるための糧とならないものを
寝食忘れても作り出してしまう。
それが、最も人間らしい行為なのかもしれませんが
KINACOちゃまが言うように、偉才というものは
何かと引き換えでないと、生まれてこないのかもしれないですね。
『絵』は、お描きになられます心・意思そのもののように思います。
嘘・偽りのない・・・
価値を目論んで、また描く事意外の別の何かを想い描きますと
作品のお色が 薄くなってしまうように感じてしまいます(;;)
黒猫手毬さんのお描きになられました作品、凄く見てみたいです^^
そこらへんと創作能力ってのは、なんか関係ありそうですねーw
わかりませんけど。
だけど、アウトサイダーアートってのは、独特の迫力を感じます。
以前、新聞でダンスのを目にしたことがありますが、文字と写真だけでも物凄い訴求力がありましたからねえ。
吉本のジョー大西でしたっけ、あの人の色使いをみたとき、その事を思い出しました。
あの色使いは、普通の「脳内作業」が出来売る人には無理です。
何かが欠けて、何か特殊能力を得ているのかもしれません。
ビートたけしの絵は、奇才を衒った凡人です。
渡辺淳一や、あのあ〜。。名前忘れました。。。ベストセラー作家なんだけどなぁ。。
あんなんも、常識の中にある人のごくごく普通の才能、テクニックだと感じます。
なにが言いたかったのか良くわからなくなって来ましたが、
「ブラボー頭のおかしな人」で、そのおかしさを手に入れようと装うと、
じつにみっともないけれど、大衆は騙され易いって事でしょうか。。。
一般的に知的に障害があるとされる人達、ねぇ、どうなんでしょうね。
障害なのかなぁ。。。何かを手放して何かを得てるのかもしれないです。
その何かをこちらがわかってないだけかもしれないです。