Nicotto Town



東北の女性(ひと)


少し昔の話をしよう。

車の入り込めない細い坂道を上がった、小さな一軒家に母とわたしは住んでいた。
庭の隅っこで、背伸びをすると遠くに海が見えた。

秋晴れの或る日、落ち葉を踏んで見知らぬ男性が訪ねてきた。
わたしに会いに。

「あんたの兄さんが会いにきはった」と母は言った。
大きながっしりとした体格の人は、わたしよりもずいぶん年上に見えた。
「この子似てますか」と母はその人に問う。
「ああ。。少し」とわたしを覗き込む。
「わたしは父似で、たぶん二歳上の兄の方が似ています」
とわたし。

母と意識しているのは現在の母だ。
養母だが、喧嘩もして、言いたい事も言ってきた。
わたしに実母の記憶はない。
目の前に人は、養母からぼんやりと聞いたことのある
実母の長男、異父兄ということになる。
 
実母は東北の女性だ。
彼女の父は中学か何か、とにかく校長をしていて
たぶん、その地域では名士であったようだ。

恋した人は韓国の人で、大反対された。
母親が彼女の髪の毛を引き摺り回し、殴る蹴るという暴行にまで及んだという。
障害が大きければ大きいほど若い日の恋は燃え上がる。
彼女は家を捨てた。

だが、現実は厳しい。
韓国の男性は、自分の妻には厳しい面がある。(昔はそうだった。男尊女卑)
家事、子育てを完璧にこなさなければいけない。
彼女は体が弱かった。夫の要求には応える事が出来ず、時に寝込んだ。
そして、暴力を振るった。
彼女は耐えかねて、雪の積もる北国の道を裸足で飛び出し
隣家に助けを求めたという。

かわいそうで、かわいそうで、たまりませんでした。
と、その人は(異父兄)目を潤ませて言った。

ほどなく離縁され、夫は韓国に子どもを連れて日本を去ることとなった。

おかあさん、泣きながらついてくるんです。後から離れて
わたしが振り返ると、お父さんがものすごく怒りました。

当時、異父兄は小学生5年くらいで、不遇で美しい母が愛おしくてたまらず
忘れることはできなかった。

わたしは俯いて聴くしかない。
何も話す事はなかった。
目の前の人も、実母も、知らないに等しい人達だ。
ただ、ただ、混乱するばかり。

母の死を知った彼は、足跡を調べた。
当時軍隊にいたので可能だったらしい。

他に子どもが4人もいた。
自分のように寂しい想いをさせたのか。
なぜ、育てる事が出来ない子どもを産んだのだ。
それがショックだった。

武器庫に走って、銃を口の中に突っ込んで自殺しようとした。
行動が可笑しいと気付いて、追いかけて来た部隊長が体当たりして
それを防いだ。

他人事なら泣ける話だなぁと
思っていた。
彼の想いが熱ければ熱いほど、わたしは冷めていく。

命をかけるほど恋しいあなたの母であり
わたしの母でもある人の記憶が、全くないのです。
とは言えなかった。

除隊になって、時間が出来たから、念願のお墓参りに来たのだという。
実母のことも知って、いろいろと世話をしてもらっている人の
電話番号と、異父兄の名を書いたメモを残し
その人は去って行った。
坂を下る時、大きな肩が丸まって、寂しげだった。
 
数日、迷った末、一度電話をかけた。
愛想のいい声の男性が出てきて
東北、昔住んでいた場所を周っているようです
と不在を教えてくれた。

もう終わったことだから、
お母さんのことは忘れて、自分の人生をちゃんと生きたらどうだ。
(わたしに)会いに行ってもびっくりするだけだから、やめとけと
言ったんですが、きかなくてね。

そうですか。わたしもそう思います。
過ぎたことは忘れて、前向きに生きてください
と伝えてください。

その人は、異父兄の帰国日を教えてくれた。

本棚の文庫本の上にメモを置いていた。
見るたびに決断を迫られた。
もう一度電話しようか。
そう決めた日、メモは無くなった。

たぶん、母だろう。
訊けば「知らない」と怒ったように言う。
実母との繋がりに苛立ったのかもしれない。
「そう」
わたしは、今まで何も問う事はしない。
養母の、いや妻としての、実母に対するささやかな復讐だったのかもしれない。
それくらいはしてもいい、とわたしは思っている。
そして、時折、わたしの中にも実母の姿を見ているのかもしれない。
仕方のないことだ。

あの時は、わたし自身も若かった。
どうしていいのか分からなかった。

実は、異父兄の名前すら、一文字も覚えていない。
覚えることを拒否していたかのように。

消息は途切れてしまった。

ややこしいDVの父が亡くなった時、戸籍で調べようとしたが
個人情報保護法に阻まれた。

父が亡くなって、しこりの残る親子関係は、
人が忘れなさい、と言っても、一度は辿らなければ、自分が納得しなければ
越えることができない傷である事を知った。

異父兄は母を辿る旅をするしか、次に進めなかったのだと思う。
寂しい想いしたとしても。

今でも実母の話では泣けない。

異父兄は自分の人生を立て直すことができただろうか。
彼の想いに泣けてくる時がある。
あの時はやっぱり、だめだったろう。

時は尊い事を教えてくれる。

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2010/04/26 15:23
刹那さん★コメントありがとうございます。

実話です。
でも、昔の話なので、そこそこ心理的解決は
ついているのですよ^^
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2010/04/26 04:04
これは、ただの小説ではないのですね。
実話なのですね。

黒猫手毬さんは・・・・
切なくて、何も話せないです。

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2010/04/21 23:08
KINACOさん

そうですか。
『指輪物語』を思い出します。
一番小さき者が世界を救う。

チビちゃん達も生きるのに必死であったろうけれど
KINACOさん一家も、チビちゃん達にたくさん助けられたのですね。

人生はいろんな所で逆転現象をみます。
一番エラソウな奴が、弱くて、不遇だと思われていた人が
幸せだったり、と。

人のホントが見えるのは、時が流れてからかも。
その時、解らなかったことが、糸をほどくようほぐれても
時間は元にもどらない。
それでも、切なさ、哀しさは美味しい酒の肴になるでしょう。
わたし、飲めないけど^^;
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2010/04/21 01:00
おっしゃりとおりですよ、黒猫さん

父は、「守るべき幼子」をもう一度全力で守る立場を手に入れて
「パパは何でもできるもんね~!」といわれ、ピコピコなるヘップでちょこちょこ歩く女の子たちの小さな手を握り
お散歩に行く日々の中で、完結させていったんです。
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2010/04/21 00:23
カルカンさん★コメントありがとうございます。

みんな、それぞれ、いろんな想いがあったことでしょうね。
誰だって円満に幸せに暮らしたいものです。
でも、それを築くためには、多少の我慢も必要であったのだと
本当は親たちに言いたいものですが^^;

血の繋がりが、優しいばかりとは限りませんものね。
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2010/04/21 00:20
招きさん。続きです。

実母の死を知らされた時、泣かないのはおかしいのではないか、と
泣こうと試みたのです。
しかし、泣く材料がありませんでした。

わたしは親がいてくれたらとか思わない子どもだったんです。
いわば現状をよくしていこうと、頑張るタイプで、日夜、父の暴力を止め
何とか働かして更生させようと、末っ子ですが、父と言い争っていたんです。
親になろうとしていた子ども、だったのかもしれません。
家族を再生させたかった。三歳の時、父の暴力を止めた経験から
自分はできる、と信じていたフシがあります。

わたしは家族を守りたかった。
おかしいでしょうが、そう思っていたのです。一番ちっちゃな子が。
その中に実母はいませんでした。

守る為には実利的にならなけらばいけません。
いない人を思っている余裕などありません。

一番悲しかったのは、自分が守れると思っていた家族を、結局は父を見捨てざるを得なかったことでした。
実際は無理なのです。一番小さな子に、そんな役目を背負わせたしまった父も養母も
褒めらてたものではありません。が、わたしには大事な家族だったんですね。

わたしは実母なしの記憶でスタートしているのです。

しかし、実母が亡くなった病で、(軽かったので大丈夫)入院したり
在日の方が、日本人と結婚する時の凄まじい周囲の反対を聴く機会があったりで
思い起こさざるを得ないのが、今、なのです。

気の毒だとは、今も思いません。
自分で選んだ道を生きた人で、弱くはなかったはずです。
彼女は女であったのか、それを重視するならば、子どもを生んではいけなかったはず。
母であるならば、手を離してはいけなかったはず。
一度ならいいのです。何度も繰り返してしまったことに
納得がいかないんです。

自分のことで、実母に言いたいことはないんです。
それなりに自分の力でやってきたことに満足してるから

実母はどんな人であったのだろう。
と感傷的に思えば、そこに、それぞれの空白を持った
彼女の子ども、わたしの他の5人、それぞれの空白を思い浮かべてしまいます。
罪なことです。

異父兄と同じ、本当は心配してきてくれたんだと思います。
意外なくらいケロッとしている、わたしに拍子抜けしたのかもしれません。
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2010/04/20 23:44
招き猫さん★コメントありがとうございます。

男女差、異性の親という違いがあるように思うのです。

招きさんもお父さまには厳しくなるでしょう。同性として生き方を問う感じなってしまうんですね。
そしてね、たぶん、男の子は優しい。絶対に女よりも優しい生き物です。その分、弱いですけどね^^;;

わたしには実母と触れ合った記憶がありません。
招きさんもそうなのでしょうか。
これは養母から聞いた話です。

わたしの二歳上の実の兄が、まだ赤ちゃんだった頃、実母が育てきれず、父も遊び呆けて行方不明。
養母は兄を連れ、お金を工面する為自分の故郷に戻りました。
その時点で、男の子だから兄だけは育てるつもりだったんでしょうね。

一年半ほどして、ほとぼりが冷めただろうと思い帰ってくると、わたしが生まれていたというわけです。
父はいらないと、何度も言ったそうです。
確かに婚外子の二人目はいらないだろうなぁと、わたしも思うのです。
まぁ、生まれてしまったものは仕方がありません。

帰ってきた養母と悲惨な状態だったらしい実母に、この子達二人を置いて逃げようと
養護施設に預け、父の責任をとらせ、やり直そうと言う事になったそうです。
まぁ、それもありかもしれません。

結局、養母がわたし達を育てることとなったわけです。
そこに何があったのか、養母は語らないので、わたしも訊きません。
ただ、手放してしまえば、離した方が絶対に悪い、とわたしは思います。どういう状況であろうと
それでやっぱり終わりなんです。

そのあとがいけない。また子どもを二人生んでしまった。
どこまでも男性にすがるわけです。
生き方として、方法がなかったのかと思ってしまうのです。
でも、この感情はとても客観的。

本音は、何の感情もないところなんです。
遺伝子は感じ、実母の想いもあったことでしょう。
でも、記憶がない。手紙も言葉も、何もない。
もういなかった事にしようと決めて、それでいいと思っていた人でした。
怒りや怨みがあれば、まだ、ましなんだと、係わりがあった証拠ですからね。
ぽっかりとした空白です。
そして、もうこの世にはいません。思春期の頃に亡くなったのです。
責めることがない分、悲しいということもありませんでした。
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2010/04/20 23:07
南の島のヒロさん★コメントありがとうございます。

まだ小さかったから、ずいぶんと辛い思いをされたでしょうね。
幼い頃の反抗は、親に気付いて欲しい故なので、それをうやむやなまま
返されたことに、いたく傷つかれたのだとお察しします。

友人も幼い頃、お兄さん二人と養護施設に一時預けられていたのですが
母親が兄二人を連れ、彼女だけ置き去りにされた経験があるそうです。
その時の記憶が、あまりにショックだったのでしょうね。ないそうなんです。

異父弟さんも同じ島とは奇遇ですね。女性同士の諍いは、厄介です。。
養母と実の兄、兄嫁の仲がこじれて、修復不可能で困っているので、よくわかります。。
ヒロさんは、生きる力に溢れておられるから、大丈夫。
血の繋がらない相手であっても、たくさんのお友だちに囲まれて
精力的な老後?を過ごされておられます。
それも、なかなかできることではありませんよ。素敵なことではありませんか。
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2010/04/20 22:55
yukinkoさん★コメントありがとうございます。

聞いたことによると、そうかもしれませんね。
何度か見たことはあるのです。幼いころですが。。話したことはありません。
か細い、儚げな感じの女性でした。実母であろことは察しがついていたのです。
どこかに捨てられたという気持ちがあったのでしょうね。
何よりも見知らぬ女性、という思いが強くありました。実感がなかったんですね。無理もないけど。

ただ、最初の恋は、ある意味、その勇気に共感するところもあります。
失敗してしまったのは仕方ありません。しかし、その後がいけない。
男で失敗したのなら、やっぱり学習して欲しいし、我身一つ、誰にも頼らず生きていく道を模索できなかったのか
そこがね、納得いかないんです。実母はわたしと兄を含め6人、生んでいるんですね。
最初の二人は異父兄と異父姉、わたしと兄と、その下に双子の妹がこれも異父ということになりますが
いるようなんですね。

個人的には何も浮かばない、いわば記憶がないんですね。
そこに感情が生まれないんです。怒りとか感じるのであれば、まだいいのかもしれない。。
何もなかったから、見知らぬ人と同じで、空白を埋めることが、正直なところ難しいのです。
直接的な何か、本人からの手紙とか、言葉とか、わたしに対する何かが残されていれば、
変わったのかもしれませんね。

異父兄も、日本人とハーフですし、本国で苦労したのかもしれませんね。
もう、かなり昔になります。戸籍を辿ることも難しく、会う事も、やはり難しくなっていますね。
会ったとしても、やっぱり話す事がないと思うのです。
実母の想いで話をしても、そこにわたしの存在はかけらもなく、ただ、居心地の悪い想いが残り
気持ちをとても理解できるのだけれど、何で埋めていいのか、今も分からないというのが本音でしょうね。
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2010/04/20 21:21
時間とともに考え方や感じ方
が変化するですね。
残した思い 残された思い
いろいろとあるですが
ゆっくりとでも消化して
いけることがいいですね^^
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2010/04/20 11:53
血は水よりも濃いって、誰が言ったんだろうなぁ。
親が子供と暮らす事って当たり前の事なんだろうけど、環境や境遇でそれが出来ない事もある。
親も子もそれぞれ自分の人生を持っていて、誰もそれを邪魔する権利はなくて
それでも子に人生を捧げる親もいるのは事実で、果たしてそれが報われるのかと言えばそうでもなくて。

実母の話では泣けないという黒猫手毬さんは、やはり不幸をひとつ背負っておられると思います。
私は母に会いたいと思っています。
私を捨てた母ですが、産んでくれたのは紛れもない事実ですから。
しかし、母の人生で私という存在が不必要であれば会う事は出来ません。
それはどんなに自分が願っていたとしても、です。

だから、私がその異父兄さんの立場だったとしたら、黒猫手毬さんとは会わなかったと思います。
変え様もない過去よりも、輝ける未来を大切にしたいですから。
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2010/04/20 10:54
こんにちわ。

 ワテの実母は、3年前に亡くなりました。 ワテの父親は、ワテが3才の時に亡くなり、ワテと1才の弟が残りました。
 当時、父親が神戸は三宮の駅前で、喫茶店を母にやらせていたのですわ。
 しかし、そこは空襲で全てが灰になったんです。 母と祖母は地下の防空壕に入れてあった家財道具を祖母の実家に運び、母の実家の借家に移って生活してましたが、母が再婚、祖母が孫二人を育てるのが無理だからと、ワテが連れ子で行ったのですわ。 そこで、新たに異父弟が2人出来ました。 それらは、ぼん、こぼんと呼ばれて、ワテは名前の呼び捨て、明らかな差別に耐えられず、悪い子になったんですわ。 それで、小学校2年生になる時に、ワテは祖母のところに戻され、実弟が変わりに引き取られたんですわ。
 成人して、結婚してもワテは、「お母さん」と、呼んだことがありまへんでした。 ワテの2人目の子供が出来た時、未亡人になってた母が押しかけてきて、面倒えお見ていたことがありましたけど、それでも、呼ばなかったですわ。
今、不思議なことに、異父弟のこぼんが、ワテと同じ島に住んでますけど、彼ら異父弟は、「兄さん」と、呼んでくれますが、嫁さん同士のいさかいから、今は、絶縁状態ですわ。
 家族の絆、唯一実弟一家との付き合いと、ぼんとの付き合いが残ってるだけ。
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2010/04/20 08:11
実母さんは、情熱的だけれど体が弱く、当時の社会では女手ひとつで子供を育てて行く事が難しかったがゆえ、男の人を頼り、そこで子供を授かるという事を繰り返されてしまったのでしょうか。一生懸命に生きようとしたゆえの悪循環であったかもしれませんね。家庭内で暴行を受けた人はDVの被害者になりやすく(DVの連鎖ですね)、彼女も暴力から逃げながら生きたのかもしれないですね。

当事者の手毬さんが今でも実母さんの事で泣けないのは、当然だと思います。
異父兄さんとは、これからもしも出会う事があれば、時を経て、昔とは違う感情でお話できるでしょうが、再び会う事は難しいのかな・・・・・。
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2010/04/20 03:45
西の魔女さん★コメントありがとうございます。

血縁というものは、意識しなくても、別にどうでもいいやと思っていても
個としての歴史なんでしょうね。

実母のことは、ほぼ忘れ去っていたのです。
それが、向こうからやってきたことに衝撃を受けました。
兄の所にも行ったそうですが留守で
わたしには出会えた。
いつも、わたしに一家の大事なことが(嬉しくない事ばかり^^;)集まってくるようです。

思いだして欲しかったのかもしれませんね。

その後、在日の人と話をする機会があり、日本人との結婚で
凄まじい反対と妨害を受けた話を聞きました。
病も、実母が亡くなったもので、わたしは軽かったけれど、入院中は思い浮かべずにはおれませんでした。

実母の生き方は今も納得がいきません。
彼女は六人、子どもを産み、成人するまで育てることはなかった。
母としてはとても悲しい事であったでしょう。

それも年を経なければ、理解はできません。
実母達世代は、激動の時代を生きたのですしね。

養母は実母とは正反対の人で、無邪気です。
それゆえに、無意識に残酷でもある。
でも、その無邪気さゆえに、わたしは心の裏側を探ることをせずに済んだ
いわば守られたのですね。
そして父をとても愛していたのでしょう。

一番の欠落は、記憶がない、という事です。
すべてが人伝に聞いたことばかり。
そのほとんどが養母からであること。

実母のこととなると、複雑なものがいろいろと絡みます。
人は、子どもの頃に思い描いた美しいものではありません。
たぶんもっと愚かです。
愚かである事は、哀しいし、哀しいことこそ
生きる愛おしさでもあるかもしれません。
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2010/04/20 03:06
catさん★コメントありがとうございます。

たぶん、問題が一つだけであったなら、
人はその一つに大きな衝撃を受け、深く傷つき、人生を誤る可能性があるのかもしれません。
深く考えすぎるんです。一つだけだから^^;;

わたしには会っていない、兄弟がまだ何人かおるのです。
まぁ、両親ともいろいろとやってくれたものです。
問題が多発すると、まず目の前の事から片づけなくてはなりません。
あとはカット!
そうやって生きてきたように思います。

あらゆる可能性を、まぁ幼いので知れていますが
考えながら、両親を軸としない、人に頼らない事を心がけてやってきました。

肉親への愛、事、親の愛となると
子どもは貪欲で、常に「一番愛して欲しい」という渇望がついてまわります。
親にこだわるというのは
遺伝子レベルの欲求かもしれません。

そこそこ生きていくと、ままならぬことを経験し
自分のどうしようもなさを知ることもあります。

そこでようやく、人の哀しさを知り
哀しいがゆえに
ささやかな「愛」なるものがあると気付くのす。
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2010/04/20 02:44
KINACOさん★コメントありがとうございます。

男の方が、精神的に弱い分、優しいしロマンチストである、そんな気がします。
女は実利的だから、強いんでしょうね。

男の弱さを愛でるのが、母性的な部分かもしれません。
それを持っていたのがKINACOさんのお母さま。
そのお二人であったからこそ、まだ赤ちゃんに等しいチビちゃん達をお引き取りになったのでしょう。
今、ふと思ったのだけれど、
チビちゃん二人を大事に育てることで、お父さまが苛めらた欠落を埋める作業されていたのかも、と。。

淡い期待を胸に、親族の元に出向いたお父さまのお守りであったのでしょう。
六歳の妹さんが。

血縁って、難しいよ。
血が繋がっていなければ、なんとも思わない事でも
お互いが、期待してしまうから。でも、みんな自分のことで精一杯な事が多いからね。
人の痛みが見えるという人はあまりいないかもしれませんね。
経験しないと分からない事が多いから。

一言でも優しい言葉があれば、報われたでしょうね。
その寂しさを薄めてくれたのも
スイカを食べ散らかした小さな女の子であったのでしょう。

時々、親密感を持ってKINACOさんのチビちゃん二人を思うの。
女ばっかりであった空間は
弱さを愛でる母性でもあったのかな、
だからこそ、懐かしい優しさを持った時間。
普通なら女ばっかりで、疎外を感じる男親のお父さまも
母性的な空気に癒されておられたのでしょう。
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2010/04/20 01:49
ユミ丁稚さん★コメントありがとうございます。

自分の感情をのけてしまえば、それぞれの哀しい想いが見えてくるんですね。
だからこそ、他人ならば泣けるのだろうと思うのです。
肉親の場合は、どうしても『一番、愛して欲しい』という呪縛が最初にあるんです。
相手に対する期待もあるし。

肉親への愛情は、双方の幻想で成り立っている部分がある、とわたしは思います。
異父兄の圧倒的な愛も「守りきれなかった弱く哀しい女性」という強い思慕の念があったのでしょうね。

しかし実母は弱い女性ではなかった。わたしはそう思う。
そして、異父兄には妹さんもいて(異父姉)、彼女もわたしと同意見であったようで
「子どもを捨てるような女性は母とは思えない」と、旅の同行を拒絶したそうです。
これは同性だから見えてくる視点なのでしょう。
異性の親というものは、やはり特別なのでしょう。

実母にとっても初めて産んだ子ども。
別れ際に見せた彼の泣き顔を終世忘れることはなかった、と聞いています。
お互い強い思慕の念で繋がっている親子関係でした。

わたしには全くない。記憶すらないのです。
異父兄の語る愛は、わたしに欠落を気付かせる
酷い行為でもありました。
わたしも若かった。
彼の痛みを理解するには。

ただ、記憶の底に置き去りにした母が、実体のない存在であった人が
確かな存在として感じることができました。
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2010/04/19 16:52
自分が選んだ道じゃなくても
自分と同じ血が流れている人が選んだ道は
避けて通れないんだね。

時が過ぎても、納得がいかない記憶は
美しい思い出にはならない。

納得をするための旅が、傷を深めないように
座して祈るというのも、また、つらいことでしょう。
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2010/04/19 16:22
もし・・・

もしも私も母、或いは父が二人存在致しましたら・・・
最初は恐らく『逢いたくない』『知りたくない』と感じる事と思います。

自分の中の変化がきっと怖くて。

それまでの自分の家族像から
新たに一人、それまで空白でした筈の場所におられますもう一人の家族。
簡単には 心が受け付けられません。


ですが、大人になり行くに連れ
一度はやはり過去を辿りたく思い返します時が 参りますように感じます。
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2010/04/19 11:42
私の父は、母と弟を早くになくしたのね、結核で。
この話は、黒猫さんのお話に比べて、ずっとずっと軽い物なのだけど。。。

じじいはその骨をお墓に入れる気持ちになれず、ずっち抱いて寝ていたの。

じじいは、無気力なまま再婚して、父はいじめられ、家を追い出されるのだけど、
私のすぐ下の妹が6歳のころ、その実母の実家から、「アナタにも今回の遺産の受け取り権利があるから。」って連絡があったの、いままで全く連絡がなかったその実家。
父は迷ったのね。
母は、「遺産の話はさておいて、行ってみたいのならば、行ってみたらいい」
父は、その言葉に押されて行くの。
妹をつれてね。
開口一番「すまない」と。。。あんな辛い思いをした自分に対しての「すまない」なのかと思いきや、
「遺産は全部使ってしまった」の「すまない」だったのね。
「分配する物がない」と。。。

父にはどうでもいい事だったの、そんなこと。

ただ、継母にイジメられ、可愛がってくれたおばあちゃんが死んだ後の辛い日々に、
どこかから自分を助けてくれる人が来てくれないか、そのSOS、届かなかったSOS,

それへの終止符だっただけなのね、したかったのは。

父は帰って来たなり、「疲れたなぁ。。。人ってお金の話しかしないんだなぁ。。。」って。
「そう、おつかれさん」と母は言って、父は
「コイツ、出されたスイカが美味しくないもんだから、あっちこっち齧って恥ずかしかったなぁ」と妹の事を言って、みんなで笑ったの。笑ってけど、その時の父が可哀想で。。。

話が全然違うけど、なんだろうね、そのコト思い出した。
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2010/04/19 01:24
とても複雑で、いろんな人のそれぞれの思いがありますね。




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