Nicotto Town



見上げたもの


駅前に住んでいた。
ゴトゴト、電車の音がしていた。

わたしは6歳、かっちゃんは3歳 かッちゃんのお姉さんのヒナコちゃんは7歳だった。近所の幼なじみでよくあそんでいた。

ヒナコちゃんは色黒だったけれど、弟のかっちゃんは色白でぱっちりお目目
女の子にしたいほど可愛かった。

或る夏の日、三人で行けるところまで行こうと、ちっちゃな旅に出た。
かっちゃんは錆びついた赤い三輪車を漕ぎ、わたし達はトコトコと
何処までも歩いていった。

行きどまったら引き返そうという、決めていた。
かっちゃんは一番小さかったから泣き虫だった。泣き事を言うと
連れて行ってもらえないので、必死な顔で三輪車を漕いで、
少し遅れながらついて来た。

眩しい日差し、わたしたち出会った。大きな障害物
蔦の絡まる甲子園球場を
見上げた。
避けて進むには大きすぎて、引き返すことにした。

「西宮から甲子園まで、大人でもしんどいよ。もう行ったらいかんよ」
親たちは驚いて、少しだけ叱るように強く言って、笑った。

わたしの父は働かなかった。、ついに駅前の店を売って、浜辺近くに
引っ越した。
その時、かっちゃんは小学生になっていなかった。
学校は同じだけれど、学年が違い、家も遠いとなると
だんだん、遊ばなくなってしまった。

小学校に行ったかっちゃんが苛められているという話を
母が何処からか聞いてきた。
かっちゃんは勉強ができず、漢字が全く読めないのだそうだ。
そうかぁ。大変だなぁと、かっちゃんのぽっちゃりとした頬を思い浮かべた。

その頃、わたしの家庭環境も最悪だった。
だから、かっちゃんとヒナコちゃんのことは話題に上らなくなった。
数年後、わたしたちは父を置いて、家を出た。

風の便りに、かっちゃんとヒナコちゃんのお母さんが
男の人と家を出たと聞いた。
大人しそうな、それでいて何かを我慢しているようなヒナコちゃんのお母さん
おっとりとして、どちらかといえば無能なお父さんだった。
かっちゃんとヒナコちゃん達はどうしているだろうか、辛いなと思ったけれど
わたしたちは出会うことはなかった。


時が流れ去った。
わたしは大人になり、父が亡くなった。
それを機に、懐かしい駅前の、懐かしい人達を訪ねてみた。
かっちゃんが中学時代から荒れて、少年院の出入りを繰り返していたと聞いた。
わたしと同じ歳の幼馴染のケンちゃんが
「俺、街で合ったら情けなくて、涙がでるんや」
と、かッちゃんの事を言った。
悪い仲間とつるんで、チンピラになってしまったらしい。


「ヒナコちゃん、お姉ちゃんやのに、なんでもっと面倒みてやらんかったんろう」
とわたしの母は言った。
かっちゃんだけが辛かったのではない。ヒナコちゃんはもっと辛かっただろう
と、母の言葉を無視した。

ヒナコちゃんはちゃんと普通に暮らしていた。
ケンちゃんのお母さんに電話番号を教えてもらった。
電話すると、ヒナコちゃんは沈黙した。
わたしの懐かしさとは裏腹に、そっけなく、気まずい思いをしてしまった。

ヒナコちゃんにとって、昔は辛い思い出になってしまっていた。
当然、かっちゃんのことも話さなくてはならない。
やくざになってしまった弟を、ヒナコちゃんは一生抱えていかなければならない。
彼女も自分の人生を立て直すために必死で頑張ったんだろう。
そんな中で、指の間から擦りぬけていくこともある。
どんなに大切でも。
なんて無神経なことをしてしまったんだろう。
ヒナコちゃんの心の内を思った。

わたしの記憶の中には、弱虫で色白で、無垢な幼いかッちゃんの顔しかない。
出会ったとしても、お互いに気付くことすらないだろう。
わたしも、かっちゃんも、ずいぶんな大人になってしまった。

暴力が大嫌いなわたしだけれど
かっちゃんに出会ったら、ボコボコにしてやりたい。
「このドアホがぁ!
と怒鳴りながら。。

かっちゃん、漢字がまだ読めないままかな。
それは識字障害だったかもしれないね。
かっちゃん、きっとハンサムになってたよ。

涙が出るよ。

時間は巻き戻すことができなんだもの。

甲子園球場見上げた時
蔦の葉の濃い緑は、夏の光を受けて
輝いていたね。
とっても大きかった。
毎年、高校球児の熱戦が繰り広げられる。
暑い神聖な球場だ。
わたし達の未来は、
明るいものに満ちていたね。




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2010/02/13 23:31
西の魔女さん★コメントありがとうございました。

魔女さまの美少年、ホロリときてしまいました。

男の子方が、女の子よりも、ある種の脆さを持っている気がします。
兄を見ていても、そう思うことがあります。

一つの選択肢を避ける為には
特に、最初、歳が若ければ若い分
どれだけのものに、抗い、強い意思と運が必要か。。
時々、人生はとっても残酷です。

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2010/02/13 23:22
瑠偉さん★ありがとうございます。

生きるとは別れの連続だ。
だからこそ、思い出の中に置いて来た人を
慈しもうではないか。

どこかのエッセイで読んだ言葉です。

わたし達は、たくさんの人と出会い、そして別れながら
先を進んでいきます。
人生とは記憶の積み重ねにあるんですね。

難しいということを知るのも
成長ですね。
現実は厳しくても、ささやかでも夢を忘れず
一番は努力するのが大事なんですが^^;;
でも、持ち続けていると
叶うこともあるんですよ。

そうそう「糸」という中島みゆきさんの歌があります。
貼っておきましょう。
わたしたちは出会ってしまった。
何かの縁でしょうね。

探しに行って、またまた、しみじみ聴いてしまいました。諫山実生さんで。

http://www.youtube.com/watch?v=o-bGX71h37A&feature=related
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2010/02/13 23:01
大人の都合で変わっていく環境に、子供の人生が左右されるのって哀しいよね。

転勤で住んだことのある街で、次男のお友だちだった男の子も見た目も性格も愛くるしい坊やでした。
彼のパパは、その道の人。
彼はママが大好きで、参観日に授業の途中でママに飛びつきに行くほどでした。
そのママが妹だけ連れて、パパから逃げました。
次男が小4の時に転勤で、彼のいる街を離れましたが
風の噂で、中学から彼がその道に入ったと知りました。
美しい故に、凄みがあるとの噂でした。

もし、ママと一緒にいられたらどうだったんだろう?
逃げなければならなかったママが、逃げずに目の前で苦しむ姿を見て、彼の人生はどう変わったんだろう?

甲子園球場の蔦の壁、かっちゃんの心の隅に生きてると良いね。
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2010/02/13 00:42
小さい頃は、あれになりたい、これになりたいと
輝く夢、未来が沢山あったように思います。
でも現実を知るにつれて、難しくなっていきますね。
環境のちょっとした変化で、私たちは心も一緒に大きく変化する。
昔のことなど語れる年齢ではありませんが、
小さい時によく遊んでいたと子との思い出が
少しずつ薄くなっているような気がして、さみしく感じるときがあります。
私が引っ越したので、もう何年も会っていませんが、
最初はその子のことばかり考えていたのにだんだんと遠くなるような。
その程度だったのかと思ったこともありましたが
思い出は消えませんね。
その時にできた繋がり。大切なものです。
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2010/02/12 01:22
yukinkoさん

その時は懐かしさの方が強かったと思いますヨ^^
でも、やっぱり会っていろんなことを話しあいたい気持ちはありました。
父を知っているし、お互いの苦労も芯の所で解り合える
励ましあえるという甘い感傷も、ありました。

本当に機会があれば会ってみたいと思っています。
でも、辛いことや記憶などは、本人が解放する時期ならなければ
あえて辿りたくないものです。
そして、すごい時間的空白があり、ヒナコちゃんの置かれている現実を
わたしは知りようもありません。
大変な時期であったかもしれないし、弟の事は本当に悩みの種であったでしょう。
それを一から説明することは物凄い労力です。
彼女もあの時のわたしを知りませんし、ね。

電話した時期も、もう10年前になります。
時が流れてしまってますね。
彼女はとてもいいところに嫁いだようなのです。
嬉しいことです。
でも、罪悪感もね、あるんだろうと思うのです。そして自分の生活を守りたい気持ちも。。

偶然でも会えればね^^
縁があれば、また会えるでしょう。

人間は無い物ねだりでしょう。
妹さんは、yukinkoさんが家を出た時、とても寂しかったんだろうと思うの。
甘えているんですね。いつかそれに気づくはずです。
yukinkoさんみたいに生きたかったのかなぁ。
本人自身も、もう少し大人にならないと解らない部分があるのかもしれません。
怒るよりも、心配していると伝えた方が効果があるかもしれませんよ。
弱いところは見せてないんだろうなぁ。きっと^^
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2010/02/12 00:52
ヒナコさんが疲れてたとかじゃないんだというのは手毬さんが感じたのなら、そうなのでしょう。
そして、お父様の事で、苦労されてきた事も、お父様の死によって解放という感覚を得られた事も分かった上(その感覚に何か誤差があれば、言ってくださいね)で、私は手毬さんだからこそ、言いたい。
本当に、手毬さんは懐かしさだけでヒナコさんに連絡をしたのでしょうか?もしも、そうでないならば・・・と思ったので、前回のコメになりました。
時間とともに、うすれゆくものも、変わっていくものもあり、諦めないといけない感情も、断ち切るべき過去も、ありますね。そういいながらも、諦められなかったり、断ち切れなかったりした時に、人は思い出を遠ざけるのではないでしょうか?裏を返せば、思い出の中からひとつの光が見えたら、変わる人もいるんじゃないかと思うのです。
もちろん、今すぐでなく・・・・。
いつか、ヒナコさんと思い出だけでないお話ができる日が来たらいいなって思います。

妹、元気?って妹も知ってる友に尋ねられる度に、ショボンヌの私が言うのも、おかしな話ですがね・・。
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2010/02/11 23:46
カルカンさん★コメントありがとうございます。

運もあるでしょうね。。
巡り合わせも。

駅前の風景も懐かしさなんて探しようもないほど
一変してしまいました。
訪ねっていった時からも、時間は経っています。
どうしているんでしょうね。。
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2010/02/11 23:42
歌穂さん★コメントありがとうございます。

人は多面体です。
親戚だし、歌穂さんには優しいおじさんであったのでしょうね。
けれど、必ず泣いた人がいるでしょう。
犠牲になった人が必ずいます。
鬼であった部分があるはずなんです。
それを思うの。
下の↓catさんのレスに書いてます。

わたしが物を考える時は、フェアであることを一番に考えます。
特に身内には厳しいかもしれない。
自分にもね。
たとえ、わたしをどんなに大切にしてくれていたとしても
どこかで人の道にはずれたことをして
他人に迷惑をかけていたとしたら、
愛していても、大嫌いなんです。

善悪の規範を厳しくしているのは、育ちゆえですが
それが自分自身にも牙をむきます^^;
厄介だと思います。
でも、それを大切にも思うの。
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2010/02/11 23:22
yukinkoさん★コメントありがとうございます。

たぶんね、電話だから、余計気まずいんだと思います。
久しぶりの人と話すのと、沈黙があったりしてね。
確かに、そう思われるのは嫌かもしれない。でも、やっぱり疲れていたからとかは
浮かばないかったの。それは今でも同じです。
あの時は、厭だなって感じたのね。
もちろん今は違うかもしれない。
偶然、街であったりする可能性も、いや、お互い解らないかも。。
それぐらい時が流れています。
昔を懐かしむには、お互いの条件が整わないとダメかもしれない。
幼馴染であるけれど、空白は本当に長いもの。
本当のことはわかりません。
でも、その時ダメなら、縁が遠のいてしまうのが現実。

懐かしい場所もすっかり変わってしまいました。
地震が追い打ちをかけたしね。
父が死んで訪れた時、正直なところ、ホッとしていました。
後にとても辛くなったけれど。
楽しいことも思い出したけれど、辛いこともたくさん思いだして
父が死んで、それについては現実的に再現されることはなくなりました。
追いかけられる夢をよく見た一時期があったの。
だから、重い何かが現実的にある場合、まずそれが頭に浮かぶよ。
父が生きていた時は、どんなに離れていても
わたし達の居場所を知らなくても、何かを起こしているのではないかという
重い気持ちが、いつもどこかにあったんです。
だからね、わたしはやっぱり、そう思ってしまう。
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2010/02/11 22:34
南の島のヒロさん★コメントありがとうございます。

ヒロさんの時代には、もっと激動があったことでしょうね。
ヒロさんも苦労されて、自力で頑張ってこられた。

家庭環境が厳しいと、頼るものは自ら強くなるしか、這い上がる方法は
なかなか見つかりません。
ヒロさんはそこで、本当に強い生きる力を身につけられたんだと思います。
自己責任と言う、厳しい現実を、幼いころに背負わされる
口で言うほど優しいものではありません。

だからこそ、五十代にしてまた再起され、自分の人生を立て直し
夢を追いかけるエネルギーを失わずにおられるんですね。

この世界で年間1500万人以上、餓死者がでています。
選択肢のない生き方を余儀なくされた人々ですね。
惨い現実を、わたし達はほとんど知りません。

たくさんの選択肢がわたし達にはあります。
世界がどんな風で、世の中の仕組みがわかり、自分が掴みとれるチャンスもある
それを知るまで、もう少し大人になるまで
試練に耐えうるか、そこなんですね。。

自身の努力もあり、運もあるのかもしれませんね。。

ヒロさんは昔の仲間の間では成功者として噂されておられるかもしれませんよ?
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2010/02/11 22:09
亀吉さん★コメントありがとうございます。

う~ん。。亀ちゃんには残念なことだったでしょうね。
日頃、性別のことと断定したくないけれど
男であることも無縁でないかもしれませんね。

社会の中で普通に生きていく、出自に問題がある場合
マイナスから出発して、ようやく0の、人と同じスタート地点に
辿りつくまでも、かなりの苦労を強いられます。
そこで、ようやくスタート。そこからが、また、ツライ。
男性の場合は、集団の中で地位や、自尊心、見栄など、
学歴やらいろいろな物がシビアに関与することが、とても大きいように思うの。
途上で疲れ果てたのね。。

わたしにも2歳上の兄がいます。
わたしとは全然違うのね。幾度、腹を立てたことだろう。。

だから女性である方が生き易かったと、言えるわけでもないけどね。
女の方が実利的に動く分、強いことが多い。

亀ちゃんが、頑張っていること、
お兄さんも嬉しいと思います。
たとえ、何も言わなくたってね。
わたしも嬉しい。
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2010/02/11 21:56
catさん★コメントありがとうございます。

三つ子の魂百までも、と言いますね。
幼い頃垣間見た、泣き虫で甘え坊であった、少し頼りない姿が
本来の彼の姿であると思います。

居場所を求めて、辿りついたのかもしれません。
彼の現在をしるケンちゃんの「涙が出る」
という言葉が、すべてを表しているような気がします。
その道に堕ちたとしても、容姿や風体が、涙が出るまでは
いかないではありませんか。
中身の部分が、染まってしまったと
想像してしまうのです。

この話からも年月が流れています。
彼は、何かの形で改心しているかもしれません。
でもね、彼が起こしたことで、必ず泣いた人がいる。
彼は生きている限り、その人たちの悲しみや痛みを
背負わなければなりません。
立ち直ったとしても、この部分は永遠に消えません。
それが、とても哀しいのです。

被害者であることも辛いものですが
加害者であることは、それよりも重いのです。

あれ以来、行くこともなく、すべては思い出となっています。

catさん
おかえりなさい^^
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2010/02/11 21:36
タキさん★コメントありがとうございます。

きなこさんが↓下で言っているように
必要悪もあるってこと、わたしもそう思うんです。
そしてね、自ら、その道を選んで、任侠を通そうとするなら
それも一つの生き方です。

知人だあったり、隣人、友人
または身内であれば、良き人かもしれない。
人間は多面的です。
でも、裏の仕事として、他者を傷つけ、あるいは殺め
という部分が必ずある。
被害者が必ずいる。その部分において
まっとうではないと、わたしは思うのです。
差別する意識ではない。
他者に迷惑を掛ける、もしくは傷つけるという
生き方が、わたしは嫌いなのです。
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2010/02/11 21:32
アッシュさん★コメントありがとうございます。

中学の時に、組長の息子という同級生がいました。
女子には滅茶苦茶優しかったけれど、いつもコバンザメみたいに
子分を引き連れて、学校に重役登校してきていました。

地域によってはそうかもしれませんね。
子どもの時は、分け隔てなく遊べる、子どもの特権でしょうか。
その子たちには、彼らにしか解らない苦悩も
あったのだろうなぁと思います。
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2010/02/11 20:31
めぐり合わせによって
生きていく道も変わっ
ていくですね
やりきれない思いとか
うっぷんが荒れてった
んでしょうね。。
普通の仕事に戻ること
を祈ります<(_ _)>
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2010/02/11 17:59
親戚のおじさん2人が元やくざでしたよ。
昔ながらの刺青があって、小指はつめたんでしょうね。
2人とも片方の小指がなかったです。
でも、とても優しいおじさんでしたよ。
やくざだからと、彼自信を否定しないであげてくださいね。
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2010/02/11 14:50
ヒナコさんにとって、辛い再会の電話だったかどうかは、私には計り知れないけれど、辛かっただろうと思われたほうが、私だったら嫌だなと思いました。突然すぎて、疲れてて、そっけなかっただけかもしれない。今頃、懐かしく思い出してるかもしれない。ヒナコさんがそんな人であって欲しいと思う。
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2010/02/11 13:16
こんにちわ。

 幼い頃の友達の変化、これは痛いことも多いですよね。 ワテの場合も、複雑怪奇な「ご幼少の頃」でしたから、そうしたのは幾つもありますが、幸か不幸か、殆どが切れてしまって、そうした巡り合いが無かったんですわ。
 ま、風のたよりでは、立派では無い話が幾つもありますけどね。
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2010/02/11 12:15
父違いの上の兄がね、真面目だったんですよね。
養父に土下座して進学させて貰って、必死に受験勉強して姿が残っています。
色々ありましたが、10年ぶりにあったら、私達の叔母の旦那の組員になってるの。
あれだけ、真面目だったのに、どっかで屈折していったんだなぁと思いました。
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2010/02/11 11:09
時間は、どんなに強く願いましても
巻き戻します事叶わず、皆に平等にただ流れます・・・

時が進み行きます内に 離れて暮らし
ある時偶然出逢いましても 御互い昔の御姿からは
全く想像出来ませんような暮らしをされておられます事も。

幸せとは、己が感じますお気持ち次第と思います。
しかし、その方と向き合います時
心が苦しく、どこかで悲しさをお感じになられますのでしたら
きっとまだ、幸せをお探しになられております途中のように
感じます。

辛い経験、その当時では
それから先を見る事すら苦しいものですが、道を進みます限りは
光の方へ歩み寄ります事、私は可能と信じております。
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2010/02/11 04:11
私もそっちの方々に知り合いは居ますよ。
でも、私は普通に接してた。
変に威張り腐ってる訳ではなかったからね。
昔の任侠って結構しっかりしてた。
多分今とは違う物なんだと私は思う。
それこそ義理とか人情大切にしてたからね。
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2010/02/11 01:40
俺は子供の頃大阪にいたことがあるんだけど、クラスメートに一人、近所に一人、親がヤクザってのがいましたね。
どっちともよく遊びましたよ。
ヤクザの中でも、きっと偉いヒトだったのかな。
家に遊びに行くと、黒服の恐そうなおっちゃんがいっぱいいたような記憶がありますねー(近所の方ね)
お母さんは綺麗なヒトでしたね。
他にも友達の友達には数名そういう家庭環境の子がいました。
地域性だったんかもです。
思い出ですね。
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2010/02/11 01:22
KINACOさん★コメントありがとうございます。

うん。そう思うのヨ。
その方がずっと生きやすかったんだろうなぁって。
でもね、いろんな意味で、やっぱり哀しいのね。
たぶん、わたし自身がまっとうに生きなければならないという
強いコンプレックスがあるから、余計に思うんだろうなぁ。
みんながみんな強いわけではないからね。
でもね、小さい頃を知っていると、やっぱり哀しいね。
アバター
2010/02/11 01:09
話からはそれるけど、
ヤクザね。。。一個の家族なの。。今は知らないけど、昔は、多分そのころまではそうなの。
はぐれた人が、そこに集うんだよね。
親分を「おやっさん」っていうじゃない。
必要悪だと、聞いた事がある。
字が読めない子が、認められて生きていっていると考えるにはあまりに寂しいけれど、
少なくとも居場所があったんでしょう。。。
いまだったらディスレキシアを疑ってあげる事も出来るけれど、そのころじゃぁ無理。。。
きっと居場所があったんだよ。。。




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