「契約の龍」(148)
- カテゴリ:自作小説
- 2010/01/19 00:29:37
「帰りは、離れを出る前に雪を除けといた方がよさそうね」
「……そう…ですね」
やっと追い付いたところでようやく口が開ける。…息が上がりかけているのは否めないが。
「あ、でも、雪かきの道具、あるかしらね、離れに」
「…さあ…?」
そういえば、シャベルがあったっけ。窓を壊すのに使って、柄が折れてしまったが。あれは雪かき用だったのだろうか?…いや、それなら、離れに置いてはいないはずだ。ここ数年の間、離れに出入りする者といったら二人しかいないはずだし、彼らの滞在時間は、そう長くない、と聞いている。
「まあ、これ以上雪が積もらない事を祈る方が先かもね」
シャベルの事でぐるぐるする思考を断ち切ったのは、クラウディアの声だった。彼女が指さすので後ろを振り返ってみると、遠くの足跡はもう埋まりかけている。どうしようもない事で思い煩うよりも、この先どうするかを考える方が建設的だ。…それに、「用事」を早く済ませる算段も。
「…急いだ方がよさそうですね」
そう言うと、何がおかしいのかぷっと吹き出して「転ばない程度に、ね」と先に道を譲られる。後ろから見て歩き方をチェックされるのだろうか。それとも本当に、遭難を危惧しているのだろうか。
顔を上げれば、雪のヴェールを透かして離れの輪郭が見えるほどに近付いているので――王宮の窓からも、王太子宮の出入り口からも、離れはまるで見えなかった――迷う虞は無い――と思う――が、点々と続く、クリスの足跡を頼りに先へ進む。
後ろから聞こえてくるクラウディアの忍び笑いがおさまって、数歩も行かないうちに、その当人が雪を踏む音が近づいてくる。
雪道に慣れた者らしく、足音の間隔が短く、リズミカルだ。
「まあ、学院内でこんな大雪になる事は無いから、足元がおぼつかないのはしょうがないけどねえ」
背後から、いかにも、見ていられない、と言わんばかりの声が聞こえる。
「乾いたところを歩く時の歩き方は、一旦忘れた方がいいわよ」
そうして、こまごまと歩き方のレクチャーを受ける。なんだか赤ん坊扱いされているような気分だ。
歩き方の指導を受けながら、なんとか歩くスピードがあげられるようになった。…それでも気を抜くと足を取られそうになるが。
既に、先に行っているクリスの足跡は、注意しないと見分けがつきにくくなっている。着いた時、クリスに何を言われる事やら、と思っていると、まるで天気の話でもするような気楽な様子でクラウディアがこう言った。
「ところで、クリスは妊娠しているのかしら?」
折悪しく、次の一歩を置こうとしていたところだったので、バランスを崩して、転んでしまった。せっかくここまで転ばずに来たのに。
「あら…動揺した?」
起き上がって、服についた雪を払い落としながら答える。
「…そりゃ…しますよ」
「そうなのよねぇ……どういう訳か「妊娠」って単語聞くと、男性の方はみなさん動揺なさるのよねぇ、大抵」
首をひねりながら、心底不思議そうに言う。女性だって、いきなり「妊娠中か?」と聞かれたら、動揺するんじゃないかと思うんだが……違うのか?
「だいたい、そういう事は、本人に直接訊いた方が…」
「そりゃ、訊くけど、あなたもその場に立ち会うことになるのよ?心構えはしておいた方がいいんじゃない?」
まあ、この状況では、結果的にそうなる、のか…
「……ご親切に、どうも。ところで、どうしてそんな質問をなさるのか、伺ってもよろしいでしょうか」
「そりゃあ、クリスの体を管理する上で必要だから、よ」
「…そんなに…違うものなんですか?」
「それはもう。だって二人分の配慮が必要なんだもの。…一日二日ならまだしも、クリスの要望は、実質無期限だし。…正直言って、もし妊娠してるとしたら、私だって上手くできるか自信が無い。……お手本が無いんだもの」
「……その事、クリスは?」
「さあ?…でも、お願いされちゃったら、やれるだけの事をするしかないわよね。……ところで、その可能性は有るの、無いの?」